金哲義さんの新作は自らの高校時代にスポットを当てた青春グラフィティーなのだが、それは単なるセンチメンタルな感傷にはならない。大阪東部にある朝鮮学校の高等部という僕たちが覗き見ることができない聖域に入り、そこでの日常というものをドキュメンタリータッチで綴る3年間の物語は、生半可なものではない。
80年代の終わり、という時代背景も当然のことながらしっかり抑えられていく。それがこの芝居のベースなのだから当然のことだ。現在の韓流ブーム以降、日本と韓国(北朝鮮は敢えてここでは含まない)との距離と理解(誤解、偏見、そして、もちろん凄まじい差別)が以前とは違って一気に縮まってしまったかに見える中、その落差も含めて、彼自身の見たこと、体験したことがベースになっているはずのこの熱いドラマは、とても冷静な判断のもとで、在日朝鮮人の問題が描かれてあるだろうことは想像に難くない。それは、公開当時、衝撃の映画だった井筒和幸の『パッチギ』ですら、この芝居と比較すれば甘い映画に見えてしまう程だ。
もちろん幾分のデフォルメもあるだろうが、おもしろおかしく作るための嘘なんかはここには一切あるまい。事実に即して、日本人にとって、ある種の聖域に、その内側からメスを入れ、しかも、それをスキャンダルめいた見せ方はなく、静かに客観的とすら見えてくる描写で、見せていく。リアルタイムのドラマではなく、現在からあの頃を照射するというスタイルが作品に落ち着きを与えている。
金哲義さんはクールに大人の視点から、作品全体をしっかり覆うので、浮ついたシーンとか、必要以上に熱くなって作品が暴走していくこともない。この題材を扱うことは彼にとっても大きな冒険だったはずだ。ちょっと変わった題材を扱う単なる青春グラフィティーなんかにしてしまうわけにはいかない。だからと言って個人的な思いが入りすぎてバランスを崩してしまったら元も子もない。ひとつの事実を何の粉飾もなく、そのまま見せなくては意味をなさない。
しかし、ただの歴史の1ページの記録であってもならない。チャンソという少年は、あの頃の金さん自身であり、そこに不特定多数の在日朝鮮人の少年たちのひとつの想いを投影できなかったなら、この芝居を作り上げる意味がない。
あらゆる意味でこれはとてつもなく高いハードルが設定された芝居だ。しかし、金さんはそれを見事に飛び越えてしまった。オープニングから約30分。凄まじい勢いでチャンソの入学からの怒濤の日々が綴られていく。圧倒的な迫力、そのスピード。チャンソたちと一緒にこの学校に入学して、その凄い暴力の中、理不尽な体制とルールに揉まれて、それでも自分を貫いていく彼らの姿を目撃する。不敵な面構えの生徒たち。一触即発の雰囲気。暴力的な教師の目を盗んで煙草、パチンコに精を出す。朝鮮学校の内部にはいり、彼らの目線から70万在日同胞の思いを背負い、さらには彼らがあの時代にこの国で生きていくことに意味を問うことまでもがこの芝居の射程に入る。
八戸ノ里駅、ホームでの急行待ちの2分間の決闘をクライマックスにして、自分たちが何のために生きているのか、その答えを問う闘いが描かれる。実は日本とか朝鮮とか関係ない。自分が自分らしく生きるためにどうしてもやらなければならないことが、鬱屈した思いの中、静かに描かれる。
回りが強いからその中で、自分も強いフリをしていることに疲れてしまって、周りと距離をとろうとする。自分の住んでいる狭い世界からなんとかして抜け出したい。自分が一番心落ち着く場所を求めての3年間の戦いの日々が朝鮮学校という内の世界で揉まれながら、その外に広がる日本という世界と向き合い、牙をむき、吼える。何かが大きく変わっていく直前の時代、自分たちの場所を求めた10代の愛しい時間が、ある種の普遍性すら感じられる迫力で描かれていく傑作である。
80年代の終わり、という時代背景も当然のことながらしっかり抑えられていく。それがこの芝居のベースなのだから当然のことだ。現在の韓流ブーム以降、日本と韓国(北朝鮮は敢えてここでは含まない)との距離と理解(誤解、偏見、そして、もちろん凄まじい差別)が以前とは違って一気に縮まってしまったかに見える中、その落差も含めて、彼自身の見たこと、体験したことがベースになっているはずのこの熱いドラマは、とても冷静な判断のもとで、在日朝鮮人の問題が描かれてあるだろうことは想像に難くない。それは、公開当時、衝撃の映画だった井筒和幸の『パッチギ』ですら、この芝居と比較すれば甘い映画に見えてしまう程だ。
もちろん幾分のデフォルメもあるだろうが、おもしろおかしく作るための嘘なんかはここには一切あるまい。事実に即して、日本人にとって、ある種の聖域に、その内側からメスを入れ、しかも、それをスキャンダルめいた見せ方はなく、静かに客観的とすら見えてくる描写で、見せていく。リアルタイムのドラマではなく、現在からあの頃を照射するというスタイルが作品に落ち着きを与えている。
金哲義さんはクールに大人の視点から、作品全体をしっかり覆うので、浮ついたシーンとか、必要以上に熱くなって作品が暴走していくこともない。この題材を扱うことは彼にとっても大きな冒険だったはずだ。ちょっと変わった題材を扱う単なる青春グラフィティーなんかにしてしまうわけにはいかない。だからと言って個人的な思いが入りすぎてバランスを崩してしまったら元も子もない。ひとつの事実を何の粉飾もなく、そのまま見せなくては意味をなさない。
しかし、ただの歴史の1ページの記録であってもならない。チャンソという少年は、あの頃の金さん自身であり、そこに不特定多数の在日朝鮮人の少年たちのひとつの想いを投影できなかったなら、この芝居を作り上げる意味がない。
あらゆる意味でこれはとてつもなく高いハードルが設定された芝居だ。しかし、金さんはそれを見事に飛び越えてしまった。オープニングから約30分。凄まじい勢いでチャンソの入学からの怒濤の日々が綴られていく。圧倒的な迫力、そのスピード。チャンソたちと一緒にこの学校に入学して、その凄い暴力の中、理不尽な体制とルールに揉まれて、それでも自分を貫いていく彼らの姿を目撃する。不敵な面構えの生徒たち。一触即発の雰囲気。暴力的な教師の目を盗んで煙草、パチンコに精を出す。朝鮮学校の内部にはいり、彼らの目線から70万在日同胞の思いを背負い、さらには彼らがあの時代にこの国で生きていくことに意味を問うことまでもがこの芝居の射程に入る。
八戸ノ里駅、ホームでの急行待ちの2分間の決闘をクライマックスにして、自分たちが何のために生きているのか、その答えを問う闘いが描かれる。実は日本とか朝鮮とか関係ない。自分が自分らしく生きるためにどうしてもやらなければならないことが、鬱屈した思いの中、静かに描かれる。
回りが強いからその中で、自分も強いフリをしていることに疲れてしまって、周りと距離をとろうとする。自分の住んでいる狭い世界からなんとかして抜け出したい。自分が一番心落ち着く場所を求めての3年間の戦いの日々が朝鮮学校という内の世界で揉まれながら、その外に広がる日本という世界と向き合い、牙をむき、吼える。何かが大きく変わっていく直前の時代、自分たちの場所を求めた10代の愛しい時間が、ある種の普遍性すら感じられる迫力で描かれていく傑作である。