期待が大きすぎたせいか、なんだか肩すかしを食らった気分だ。ポ-ル・トーマス・アンダーソン監督の4年振りの新作。故ロバート・アルトマン監督への追悼の献辞をラストに掲げた超大作である。群像劇ではない。たったひとりの男の生き様をひたすら見つめ続けていく。カリフォルニアで石油王となった男の地道な生涯を年代記として追っていく作品だ。
ひたすら石油を掘り続ける。彼は実業家というより山師みたいなものだ。成功した後も、常にどんどん先を見つめていく。それは強欲ではない。石油を掘りつくしていくことが生きることだからだ。土地を手に入れるためには、子供も武器にする。汗と泥と油まみれになりながら、休むことなく働き続ける。大金を手に入れ悠々自適な生活を手にしたにも関わらず、そんなことより石油である。彼にとって石油を掘り出すことは生きることとイコールなのだ。非情さもそれゆえだ。たったひとりで、誰も信じないで、生き続ける姿は悲壮ですらある。しかし、その生き様を貫いていく。
運命とか、歴史とか、そういう大きなものを描くのではない。このひとりの男をただひたすらみつめていくだけだ。いいところもわるいところも、すべて飲み込んで彼の生き様をそのまま提示する。この男は自分しか信じていない。子どものことも家族のことも2の次でしかない。自分が何をしたいのか、どうしたいのか、ただそれだけ。だからといって本能のまま生きているわけではない。しっかり計算して、行動している。だが、何のために生きているのかはわかりにくい。金や名誉のためではないことは確かだ。しかし、何らかの理想に燃えているわけでもない。自らのプライドのため、というのも違う。
例えば、信念に導かれているとでもしようか。しかし、その信念の実態は明らかではない。ただ、ひたすら寡黙に、自らの目的に向かって生きる。自分にすらよくわからない衝動に突き動かされる。
独立していこうとする息子に対して、「おまえはおれの敵なのだ」と冷たくつき離す。ラストでは自分と敵対していた牧師に対して徹底的に暴力を揮い、殺してしまう。何もそこまでしなくても、と思う。しかし、彼は前後の事なんか考えず、その瞬間の衝動に突き動かされる。自分にもわからない自己内部にある何かに突き動かされて、孤独を友にし、その人生を全うする。何がそうさせるのかは、最後まで見てもわからないまま映画は終わる。いつもながらダニエル・デイ・ルイスは凄まじい。
ひたすら石油を掘り続ける。彼は実業家というより山師みたいなものだ。成功した後も、常にどんどん先を見つめていく。それは強欲ではない。石油を掘りつくしていくことが生きることだからだ。土地を手に入れるためには、子供も武器にする。汗と泥と油まみれになりながら、休むことなく働き続ける。大金を手に入れ悠々自適な生活を手にしたにも関わらず、そんなことより石油である。彼にとって石油を掘り出すことは生きることとイコールなのだ。非情さもそれゆえだ。たったひとりで、誰も信じないで、生き続ける姿は悲壮ですらある。しかし、その生き様を貫いていく。
運命とか、歴史とか、そういう大きなものを描くのではない。このひとりの男をただひたすらみつめていくだけだ。いいところもわるいところも、すべて飲み込んで彼の生き様をそのまま提示する。この男は自分しか信じていない。子どものことも家族のことも2の次でしかない。自分が何をしたいのか、どうしたいのか、ただそれだけ。だからといって本能のまま生きているわけではない。しっかり計算して、行動している。だが、何のために生きているのかはわかりにくい。金や名誉のためではないことは確かだ。しかし、何らかの理想に燃えているわけでもない。自らのプライドのため、というのも違う。
例えば、信念に導かれているとでもしようか。しかし、その信念の実態は明らかではない。ただ、ひたすら寡黙に、自らの目的に向かって生きる。自分にすらよくわからない衝動に突き動かされる。
独立していこうとする息子に対して、「おまえはおれの敵なのだ」と冷たくつき離す。ラストでは自分と敵対していた牧師に対して徹底的に暴力を揮い、殺してしまう。何もそこまでしなくても、と思う。しかし、彼は前後の事なんか考えず、その瞬間の衝動に突き動かされる。自分にもわからない自己内部にある何かに突き動かされて、孤独を友にし、その人生を全うする。何がそうさせるのかは、最後まで見てもわからないまま映画は終わる。いつもながらダニエル・デイ・ルイスは凄まじい。