久々のエレベーター企画である。大阪での公演はしばらくなかったからとても寂しい思いをしてきたけど、ようやく外輪さんの新作が見れてうれしい。残念なのは本作が6人の女優による6本の作品だったということを事前に知らされず、僕は3プロが同じ演目だと思っていたため、当然のように大野さんの出演するプログラムを見るように予定を入れてしまったことだ。3プロがすべて別の作品だと知っていたなら、なんとかして時間を遣り繰りしたのに、なんて思っても仕方ないことだ。まぁ、時間はかつかつだし、仕事が立て込んでいて時間の遣り繰りなんて不可能だったし、何より僕自身が体調不良で最終日になんとか、見れてそれだけでも充分だというのが、本音。無理しないほうがよい。だって前日のパララン翠光団なんて吐きそうになりながら見ていたので、正直言うとちゃんと芝居見れてない。
さて、前日ゆっくり寝て万全を期して劇場に。今回は久々に大野美伸さんが主演する公演である。エレベータ-と言えば大野さんでしょ。絶対に!
今回は一応リーディング公演ということらしいが、エレベーターの芝居はリーディングもストレートプレイもそんなに差はない。しかも今回役者はテキストを使わない。プロジェクターによってテキストはスクリーンに投影されるが、それを目で追うのは役者ではなく、観客のほうだったりする。こんな形のリーディングなんて前代未聞だろう。しかも大野さんは科白をみんな頭に入れているくせにわざと目線をテキストのほうに向けて、さもそれを読んでいるような芝居をみせてくれる。こんなフェイク・リーディングってありなのか。もちろんそれはふざけているわけではない。演技プランの問題だ。外輪さんの演出は観客の視線を故意にテキストのほうに向けさせようとする。役者の方に目を釘付けにさせないように工夫がなされる。それは素材との距離感を保つためだろうか。客席と演者の間の距離があまりに近すぎるこの空間の中で、近さを逆手にとって、そこに絶対的な距離を作ろうとする。観客にテキストを読まそうとするような演出はそのためであろう。
ではなぜ、そんなまどろっこしいことを仕掛けるのか。お話を語ることで、お話の世界にお客をいざなうのではなく、彼らをお話でも現実の場所でもないその中間にある領域にいざなう。観客はここにいるのに、ここにはいない。肉体から魂が浮遊するのを自分自身が見守るような感覚をこの作品は抱かせる。
外輪さんの意図とは反して、僕は当然大野さんから目を離さない。ちらっとテキストにも目を向けるが、基本的には出来る限り大野さんのほうを見る。彼女の一挙手一投足から目を離さない。たった30分の一人芝居である。しかも、5本の短編集だ。5つのお話、5人の人間を彼女は、静かに、そして瞬時に、描き分けて見せる。静と動を交錯させ5つの風景の中に人の営みの機微と、生きていくことの厳しさを封じ込める。
淡々と語る13人目の女の話。スピードの遅さを競うバイクレース。エキセントリックな男と犬との生活。水の底に沈んでいく家。そして、幸福のついての考察。夢のような30分間である。
続く岡崎絵里子さんによる『浮かぶ女』は村田喜代子の短編。高層マンションから飛び降り自殺をした女と、彼女の落ちる瞬間を目撃した3人の主婦。そして、そんな彼女たちの話を聞くことになった女。13階の住人はベランダの外を落ちる女を見た。彼女の部屋を訪れた彼女の妹とその幼い娘。そこに2人のこのマンションの住人が訪ねてくる。11階と7階の住む姉と同世代の同じような主婦たち。3人は同時に落ちてくる瞬間を目撃した。
岡崎さんは妹の語りによって死んだ女について見せる。姉たちの話を通してそれは描かれる。直接語られるのではなく、1歩距離を置く。第3者の視線から描かれていく目撃者のドラマと死んでしまった女のドラマ。それらすべてがひとつのイメージの中に収斂されていく。いつのまにか死んだ女と妹が重なって見える。飛び降り自殺という事件をマンションが林立するニュータウンの風景の中で、誰にでも起こりえる、どこにでもある匿名の事実として描く。3台のプロジェクターによってテキスト、イメージ、実際の風景が交錯する。人のいないマンションの幾つもの風景が投影されていく。そんな風景の中に彼女はいる。ここにはもういない女が暮らしたなんでもないいつもの景色。そんな断片の中に、我々はそこで死んだ女の幻をみつめることになる。
さて、前日ゆっくり寝て万全を期して劇場に。今回は久々に大野美伸さんが主演する公演である。エレベータ-と言えば大野さんでしょ。絶対に!
今回は一応リーディング公演ということらしいが、エレベーターの芝居はリーディングもストレートプレイもそんなに差はない。しかも今回役者はテキストを使わない。プロジェクターによってテキストはスクリーンに投影されるが、それを目で追うのは役者ではなく、観客のほうだったりする。こんな形のリーディングなんて前代未聞だろう。しかも大野さんは科白をみんな頭に入れているくせにわざと目線をテキストのほうに向けて、さもそれを読んでいるような芝居をみせてくれる。こんなフェイク・リーディングってありなのか。もちろんそれはふざけているわけではない。演技プランの問題だ。外輪さんの演出は観客の視線を故意にテキストのほうに向けさせようとする。役者の方に目を釘付けにさせないように工夫がなされる。それは素材との距離感を保つためだろうか。客席と演者の間の距離があまりに近すぎるこの空間の中で、近さを逆手にとって、そこに絶対的な距離を作ろうとする。観客にテキストを読まそうとするような演出はそのためであろう。
ではなぜ、そんなまどろっこしいことを仕掛けるのか。お話を語ることで、お話の世界にお客をいざなうのではなく、彼らをお話でも現実の場所でもないその中間にある領域にいざなう。観客はここにいるのに、ここにはいない。肉体から魂が浮遊するのを自分自身が見守るような感覚をこの作品は抱かせる。
外輪さんの意図とは反して、僕は当然大野さんから目を離さない。ちらっとテキストにも目を向けるが、基本的には出来る限り大野さんのほうを見る。彼女の一挙手一投足から目を離さない。たった30分の一人芝居である。しかも、5本の短編集だ。5つのお話、5人の人間を彼女は、静かに、そして瞬時に、描き分けて見せる。静と動を交錯させ5つの風景の中に人の営みの機微と、生きていくことの厳しさを封じ込める。
淡々と語る13人目の女の話。スピードの遅さを競うバイクレース。エキセントリックな男と犬との生活。水の底に沈んでいく家。そして、幸福のついての考察。夢のような30分間である。
続く岡崎絵里子さんによる『浮かぶ女』は村田喜代子の短編。高層マンションから飛び降り自殺をした女と、彼女の落ちる瞬間を目撃した3人の主婦。そして、そんな彼女たちの話を聞くことになった女。13階の住人はベランダの外を落ちる女を見た。彼女の部屋を訪れた彼女の妹とその幼い娘。そこに2人のこのマンションの住人が訪ねてくる。11階と7階の住む姉と同世代の同じような主婦たち。3人は同時に落ちてくる瞬間を目撃した。
岡崎さんは妹の語りによって死んだ女について見せる。姉たちの話を通してそれは描かれる。直接語られるのではなく、1歩距離を置く。第3者の視線から描かれていく目撃者のドラマと死んでしまった女のドラマ。それらすべてがひとつのイメージの中に収斂されていく。いつのまにか死んだ女と妹が重なって見える。飛び降り自殺という事件をマンションが林立するニュータウンの風景の中で、誰にでも起こりえる、どこにでもある匿名の事実として描く。3台のプロジェクターによってテキスト、イメージ、実際の風景が交錯する。人のいないマンションの幾つもの風景が投影されていく。そんな風景の中に彼女はいる。ここにはもういない女が暮らしたなんでもないいつもの景色。そんな断片の中に、我々はそこで死んだ女の幻をみつめることになる。