「お父さんは、もう、お父さんをやめようと思う」 ある日の朝突然に父がそう宣言する。3年前、何の前触れもなく自殺を図った父。そのショックから、家を出てしまった母。兄は大学進学をやめて農業を始め、私はそんなバラバラになった家族の中で、それでも今まで通りに生きてきた。
佐和子(北乃きい)が中三になった春の朝の出来事である。少女はそのびっくりするような一言を、驚きながらも冷静に受け止めていく。もう驚くことには慣れっこになっている。
瀬尾まいこの同名小説の映画化『幸福な食卓』のオープニングである。その時、スクリーンには何も映っていない。暗闇の中で、ボイスオーバーされていく父の告白から映画は始まる。この映画全体の方向性を見事に示した幕開けだ。
とんでもなく悲惨な物語が、こんなにも前向きに語られ、それなのに厭味にならないのは、なぜか。その答えを探っていきたい。
今回の映画化が決定したとき、監督が小松隆志であることにまず驚いた。彼のこれまでのフイルモグラフィーからこの作品は全く繋がってこない。アクションを中心にした今までの作品群の流れの中にこの作品が続くという意外な取り合わせは、予想に反して吉と出た。小松隆志はこの作品で作家としての第2のスタートを切ることに成功した。
瀬尾まいこの原作を読んだ時、このささやかな物語に魅了された。ジュニア小説のような感触の軽いタッチで描かれる家庭崩壊と再生までの物語は、主人公の佐和子の恋人となる勉学少年の明るいキャラクターによって救われていく。彼の呆れるくらいにポジティブな考え方が佐和子を巻き込み、気付くと彼女は彼のペースで生きていくことになる。彼に引きずられていくうちにどんどん幸福に近付いていける。こんなにも不孝なことばかりがあり、とても14、5歳の少女には抱えきれないくらいの傷みの中で、それでもけなげに生きてきた彼女が、中学3年になったその日、転校してきた勉学と出会い、その日から少しずつ何かが動いていく。
映画は小説とは違い、驚くほど淡々とした静けさの中でこの物語を綴っていく。何事に対しても心を動かさないで事実のみを正確に受け止めようとする彼女の姿を追いかけていく。感情の起伏をすべて内に包み込んで毎日の生活を送っていく。このへんは小説以上に徹底しており、そこが、小松隆志がこの作品で自分に課した至上命令だったのではないか。
ハイテンションのバカバカしさの中で主人公たちの奇異な行動を追い、笑わせながらもしっかり感情移入させるというスタイルを崩さなかった彼が全く違うアプローチを見せ成功している。もともと才能のある人だから、このくらい当然なのかもしれないが、今までこういう機会に恵まれなかった。デビュー作『いそげ、ブライアン』で提示したスタイルが買われて『ハイスクール仁義』『ご存知、ふんどし頭巾』といったコミカルな題材を与えられ確実にそれらをこなして、B級アクションの職人のようなレッテルを貼られてしまったのは、彼にとってそれはそれで名誉なことだったのだろうが、企画の選択肢が狭くなっていたことも事実であろう。
女子プロレスを扱った『ワイルドフラワーズ』で、人情物とアクションを上手く融合して洒落た映画に仕上げたことで、今までとは一味違う落ち着いた作品をものにしたことが、今回に繋がったのかもしれない。
さて、もう一度この映画に戻ろう。
この映画で一番驚かされるのは、あの突然の勉学(勝地涼)の死である。原作を読んだ時、愕然として、しばらくは立ち直れなかった。主人公の佐和子だけでなく、読者である僕が、である。「それはあんまりではないか」、と何度も心の中でつぶやきながら、ページを捲っていたことをはっきり覚えている。映画館でもあのシーンにはどよめきが起こっていた。全く予想もしなかったことだから当然であろう。(事前にストーリーを知ってる僕は勉学が出てきたシーンから涙目になってしまったくらいだ)監督の小松隆志ももちろんこの後、勉学が死ぬことを知っている。しかし、そんな運命なんて、もちろん考えもせずに映画は進んでいく。
映画は彼の死を描くシーンでも淡々とした描写を続ける。そこに小松隆志の強い意志を感じた。
そんな当たり前のことに、なぜかこんなにも感動していたのは、この映画が深い哀しみの中で、壊れそうになりながら、しっかり毎日の生活を送っておくことを、ことさら強調することなく、当たり前の事として描いてくれているからだろう。
この映画に流れる日常の時間。そのなんでもない日々の営みは、狂おしいくらいに愛おしい。これが、映画であることを忘れるくらいにリアルだ。だから、勉学が死んだとき、僕らはこんなに驚くことになる。人が事故にあって死ぬことはあるだろう。でも、それは自分たちではない、と何の疑いも抱かずに信じながら僕らは生きてる。だから、冷や水を浴びせられた気分になる。
映画は勉学の死から、彼女がどんなふうに立ち直っていくかを、これもまた、それまでの時間と同じように淡々と描いてみせる。ドラマチックという言葉を忘れてしまうくらいにさりげない。
だからこそ、ラストのエンディングでミスチルが流れた時のドラマチックな、まるで映画のような(もちろんこれは映画なのだが)盛り上がりが嘘っぽくなく信じられることになる。あれは佐和子の心の中で聴こえる彼女自身の応援歌なのである。自分に対して、頑張れ、頑張れと心を鼓舞してる。桜井和寿の声は彼女一人に向けられている。その歌声を僕たちも聴くのだ。この歌が流れる中、いつまでも彼女が歩き続ける。それをカメラは延々と追い続ける。曲を最初から最後まで聞かせるという意図だけでなく、この淡々とした道(人生)を黙々と生きていくんだという覚悟を感じさせる。何度も何度も振り返って、何かを確認していくのもいい。カメラは横からずっと歩き続ける彼女の姿を撮り続ける。
この道の先には彼女の家がある。彼女は家族が待つ家に帰っていく。何度も壊れてしまったけど、でも、今もしっかりそこにある<幸福な食卓>へと少女は戻っていく。
佐和子(北乃きい)が中三になった春の朝の出来事である。少女はそのびっくりするような一言を、驚きながらも冷静に受け止めていく。もう驚くことには慣れっこになっている。
瀬尾まいこの同名小説の映画化『幸福な食卓』のオープニングである。その時、スクリーンには何も映っていない。暗闇の中で、ボイスオーバーされていく父の告白から映画は始まる。この映画全体の方向性を見事に示した幕開けだ。
とんでもなく悲惨な物語が、こんなにも前向きに語られ、それなのに厭味にならないのは、なぜか。その答えを探っていきたい。
今回の映画化が決定したとき、監督が小松隆志であることにまず驚いた。彼のこれまでのフイルモグラフィーからこの作品は全く繋がってこない。アクションを中心にした今までの作品群の流れの中にこの作品が続くという意外な取り合わせは、予想に反して吉と出た。小松隆志はこの作品で作家としての第2のスタートを切ることに成功した。
瀬尾まいこの原作を読んだ時、このささやかな物語に魅了された。ジュニア小説のような感触の軽いタッチで描かれる家庭崩壊と再生までの物語は、主人公の佐和子の恋人となる勉学少年の明るいキャラクターによって救われていく。彼の呆れるくらいにポジティブな考え方が佐和子を巻き込み、気付くと彼女は彼のペースで生きていくことになる。彼に引きずられていくうちにどんどん幸福に近付いていける。こんなにも不孝なことばかりがあり、とても14、5歳の少女には抱えきれないくらいの傷みの中で、それでもけなげに生きてきた彼女が、中学3年になったその日、転校してきた勉学と出会い、その日から少しずつ何かが動いていく。
映画は小説とは違い、驚くほど淡々とした静けさの中でこの物語を綴っていく。何事に対しても心を動かさないで事実のみを正確に受け止めようとする彼女の姿を追いかけていく。感情の起伏をすべて内に包み込んで毎日の生活を送っていく。このへんは小説以上に徹底しており、そこが、小松隆志がこの作品で自分に課した至上命令だったのではないか。
ハイテンションのバカバカしさの中で主人公たちの奇異な行動を追い、笑わせながらもしっかり感情移入させるというスタイルを崩さなかった彼が全く違うアプローチを見せ成功している。もともと才能のある人だから、このくらい当然なのかもしれないが、今までこういう機会に恵まれなかった。デビュー作『いそげ、ブライアン』で提示したスタイルが買われて『ハイスクール仁義』『ご存知、ふんどし頭巾』といったコミカルな題材を与えられ確実にそれらをこなして、B級アクションの職人のようなレッテルを貼られてしまったのは、彼にとってそれはそれで名誉なことだったのだろうが、企画の選択肢が狭くなっていたことも事実であろう。
女子プロレスを扱った『ワイルドフラワーズ』で、人情物とアクションを上手く融合して洒落た映画に仕上げたことで、今までとは一味違う落ち着いた作品をものにしたことが、今回に繋がったのかもしれない。
さて、もう一度この映画に戻ろう。
この映画で一番驚かされるのは、あの突然の勉学(勝地涼)の死である。原作を読んだ時、愕然として、しばらくは立ち直れなかった。主人公の佐和子だけでなく、読者である僕が、である。「それはあんまりではないか」、と何度も心の中でつぶやきながら、ページを捲っていたことをはっきり覚えている。映画館でもあのシーンにはどよめきが起こっていた。全く予想もしなかったことだから当然であろう。(事前にストーリーを知ってる僕は勉学が出てきたシーンから涙目になってしまったくらいだ)監督の小松隆志ももちろんこの後、勉学が死ぬことを知っている。しかし、そんな運命なんて、もちろん考えもせずに映画は進んでいく。
映画は彼の死を描くシーンでも淡々とした描写を続ける。そこに小松隆志の強い意志を感じた。
そんな当たり前のことに、なぜかこんなにも感動していたのは、この映画が深い哀しみの中で、壊れそうになりながら、しっかり毎日の生活を送っておくことを、ことさら強調することなく、当たり前の事として描いてくれているからだろう。
この映画に流れる日常の時間。そのなんでもない日々の営みは、狂おしいくらいに愛おしい。これが、映画であることを忘れるくらいにリアルだ。だから、勉学が死んだとき、僕らはこんなに驚くことになる。人が事故にあって死ぬことはあるだろう。でも、それは自分たちではない、と何の疑いも抱かずに信じながら僕らは生きてる。だから、冷や水を浴びせられた気分になる。
映画は勉学の死から、彼女がどんなふうに立ち直っていくかを、これもまた、それまでの時間と同じように淡々と描いてみせる。ドラマチックという言葉を忘れてしまうくらいにさりげない。
だからこそ、ラストのエンディングでミスチルが流れた時のドラマチックな、まるで映画のような(もちろんこれは映画なのだが)盛り上がりが嘘っぽくなく信じられることになる。あれは佐和子の心の中で聴こえる彼女自身の応援歌なのである。自分に対して、頑張れ、頑張れと心を鼓舞してる。桜井和寿の声は彼女一人に向けられている。その歌声を僕たちも聴くのだ。この歌が流れる中、いつまでも彼女が歩き続ける。それをカメラは延々と追い続ける。曲を最初から最後まで聞かせるという意図だけでなく、この淡々とした道(人生)を黙々と生きていくんだという覚悟を感じさせる。何度も何度も振り返って、何かを確認していくのもいい。カメラは横からずっと歩き続ける彼女の姿を撮り続ける。
この道の先には彼女の家がある。彼女は家族が待つ家に帰っていく。何度も壊れてしまったけど、でも、今もしっかりそこにある<幸福な食卓>へと少女は戻っていく。