こんなアプローチもありなのか、と驚く。先日の万博設計『リボルバー』の驚きとはもちろん違うけど、このささやかな驚きは浦部さんらしい。身近なところからずっと大竹野を見てきた彼だからこそ、こういう大胆なアプローチも可能だったのだ。吃音を言葉遊びにして、ストーリーがわかりづらくなるのも承知の上で、延々と見せていく。言葉とリンクする身振りを通して、笑いに転化していく。そのバカバカしい行為を見せることで、大竹野世界を相対化する。この中編作品(普通に上演すると1時間にも満たない)は1時間15分の作品になる。随所に他の作品からの引用も交えるのだが、それが唐突にはならないのは、それが、どこを切っても金太郎飴のような大竹野作品のエッセンスだからだろう。わかりあえない人と人との関係性を前面に押し出し、そのもどかしさを笑いに転じる。
これもまた愛おしい家族を棄てる話である。5年前ここを出て行った男が再び舞い戻る。新しくここで暮らしている女は彼を受け入れる。女は彼が棄てた妻ではない。だが、ふたりは同じ女でもある。自分自身もここを出て行った男であり、そうではない男でもある。うらぶれたアパートの一室。そこに出来た壁の穴。そこから闇が浸食してくる。
夫婦のお話であり、本作ではそこに子どもは介在しない。だから、他のテキストから引用してきた。お話の骨格は『雨月物語』の「浅茅が宿」であり、本当なら、待ち続ける女なんていない、だろう。だけど、大竹野はそんな女を望む。彼の甘えがこの作品の根底にもある。浦部さんは優しくそんな大竹野作品のエッセンスをここから抽出し提示した。