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映画・演劇のレビュー

『京都太秦物語』

2012-01-08 18:25:32 | 映画
 これは一体何なのか。今の時代の映画ではない。60年代の香りがする。山田洋次の若かりし日の空気だ。「時代錯誤のアナクロ映画」とこき下ろすことは、意味を為さない。最初からそんな映画を作っているのだから問題はそんなことではない。なぜ、今、こんなテイストの映画を作るのか、その意図の方が気になる。しかも、これは山田監督と立命館大学による共同作業である。20歳前後の学生らとともに作った映画だ。

 彼らはこの映画に参加することで、プロによる本物の映画の現場を体験し、映画作りの大変さを学んだ、らしい。だが、それはともかく、この古臭い話に対して彼らは違和感はなかったのか。共同監督として、クレジットされた学生はこれを自分の映画だ、と胸張れるのか。こんなものが自分たちの作りたい映画なのか。

 敢えて「こんなもの」と書いた。これは山田洋次か今まで作ってきた映画のエッセンスを、わかりやすくすべて盛り込んだ集大成でもある。だが、なんか、そんな言い方すら白々しい。これはただのプロトタイプでしかない。こんなものを、見本として、提示されても、若い学生たちは、なんだか、乗り切れないのではないか。映画の作り方のテキストとして、この古さをどう受け止めるべきなのか。よくわからない。僕ですら戸惑うばかりなのだから、学生たちは、どうしようもないだろう。

 三角関係のラブストーリーなんて掃いて棄てるほどある。だが、それでも三角関係は作られる。それでいい。でも、これって寅さんとサクラと、博の三角関係である。太秦の商店街は帝釈天と同じ。そこで暮らす人々の温かさが、伝わる。山田洋次監督らしい、と言えば確かにそうだろう。夢を追いかける若者。家業を継ぐ覚悟。思い込みの激しいとんちんかんな男。どこかで見たようなイメージが3人に散りばめられる。でも、現代だし、本当の若者なら、今時これはない。

 お笑い芸人を目指す青年とその幼なじみの図書館司書をしている女性。彼女の働く大学(もちろん立命館)図書館に来た短期留学の研究者。彼らの織りなすドラマは、いくらなんでもあり得ない。

 ドキュメンタリータッチで描かれるのも、なんだかなぁ、と思う。主役の3人以外は(基本的に)実際、ここで暮らす人たちをそのままキャスティングしている。素人くさい演技はそれなりに新鮮だが、3人が上手くそこに収まらない。なんだか、取ってつけたようだ。

 山田洋次監督の学生たちへの想いは伝わる。大学での学習の一環として、こういう映画製作の体験授業はいいことだとは思う。だが、あまりにリスクが大きくはないか。35ミリの劇映画の製作にかかるお金は半端ではないだろう。そこまでして、このレベルの映画を作るのは、どんな意味があるのか、よくわからない。これなら山田洋次が自分の映画にスタッフとして学生を参加させる方が意味があるのではないか。この作品を、1本の彼の作品としてカウントするのは、少しなんだか、と思う。悪い映画ではないが、中途半端すぎて納得がいかない。これは誰のための、何のための映画なのか。そこからして、曖昧なのだ。お金をかける以上ちゃんと商業映画として成立する映画を作ってもらいたい。

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