ソフィア・コッポラの新作だ。昨年4月公開。父と娘の愛情物語なんて、なんか見たくない、と公開時は敬遠していたのだが、予想したような甘い映画ではなく、とてもすばらしい映画で、惜しいことをした。ちゃんと、劇場で見ておけば、ベストテンに入れたかもしれない。先日の『リアル・スティール』は、これと同じパターンだ。あの映画の子供は男の子だったが、こちらは女の子。でも、どちらも今までちゃんと接することのなかった自分の子供と2人の時間を通して父親が成長していく話だ。あれは一見どこにでもあるファミリーピクチャーで、娯楽映画だったが、予想だにしない傑作だった。映画を偏見やちょっとした印象で判断してはいけない。自分の目で確かめるべきだ、と改めて思う。
さて、本題の『SOMEWHERE』である。まず何より、この静寂。それが凄くいい。この映画の魅力はそこに尽きる。主人公のスティーブン・ドーフのだるそうな姿を、だらだらと見せる。映画は彼の日常を延々と追いかける。ドラマらしいドラマは、離婚した妻から、11歳になった娘を預けられることぐらいか。普段は一緒に生活していないし、自分は仕事(映画俳優)が忙しくて、娘のことも忘れている。だが、もと妻から、娘の面倒を見ることを委ねられ、サマーキャンプまでのほんの少しの時間を(でも、今までは、それすらもなかった)一緒に過ごす。次の映画の撮影にはまだ入っていないから、今はオフの時間だ。ひとりのんびりして、リセットするための貴重な時間を娘と過ごす。取材や、イタリアでの授賞式への出席とか、それなりの雑務はある。だが、そんな時間を娘と共有することで、刺激を受ける。
そんな2人の時間を通して、いろんなことが見えてくる。そこには富とか名声なんかよりもっと大事なものがある。それって言葉にすると、親子の絆、とか、なのだが、そんな単純な答えはどうでもいい。もっと違う何かがある。
ドーフ演じる男は、とても有名な映画スターなのだが、満たされない。たとえ彼がどんなにセレブであろうとも、心の空隙を埋めることはできない。娘の存在が彼を救う、とか、そういうのではない。だが、娘の孤独と彼の孤独が共鳴する。父親とともに過ごす時間は、彼女にとって幸福な時間に見える。だが、実際は不安でしかない。母親の不在を敢えて忘れるために、ほんの少し、はしゃぐ。痛ましい。表面的には動じていないように見えるから余計に痛ましいのだ。そんな彼女に父親は気付かない。彼はただ彼女を楽しませるためだけに心を砕く。でも、彼の方も実は一見そっけない。自然体に見せるだけで、実はぎこちない。
映画はそんな2人をドキュメントしていくばかりだ。感情の起伏はない。淡々としている。娘をキャンプに送りだした後、再びひとりになる。走り去る車の後ろ姿を延々と見せる。それは最初のサーキットで、同じ場所をぐるぐる回るシーンと呼応する。それは停滞からの脱出を意味するのか。やがて、彼は歩き出す。
でも、最初にも言ったが、これは説明ではない。感覚的なものだ。98分の映画の中で、「何か」が変わる瞬間を描いた。その「何か」を言葉にすると陳腐になる。だから、今はただこの心地よさに酔いしれていたい。
さて、本題の『SOMEWHERE』である。まず何より、この静寂。それが凄くいい。この映画の魅力はそこに尽きる。主人公のスティーブン・ドーフのだるそうな姿を、だらだらと見せる。映画は彼の日常を延々と追いかける。ドラマらしいドラマは、離婚した妻から、11歳になった娘を預けられることぐらいか。普段は一緒に生活していないし、自分は仕事(映画俳優)が忙しくて、娘のことも忘れている。だが、もと妻から、娘の面倒を見ることを委ねられ、サマーキャンプまでのほんの少しの時間を(でも、今までは、それすらもなかった)一緒に過ごす。次の映画の撮影にはまだ入っていないから、今はオフの時間だ。ひとりのんびりして、リセットするための貴重な時間を娘と過ごす。取材や、イタリアでの授賞式への出席とか、それなりの雑務はある。だが、そんな時間を娘と共有することで、刺激を受ける。
そんな2人の時間を通して、いろんなことが見えてくる。そこには富とか名声なんかよりもっと大事なものがある。それって言葉にすると、親子の絆、とか、なのだが、そんな単純な答えはどうでもいい。もっと違う何かがある。
ドーフ演じる男は、とても有名な映画スターなのだが、満たされない。たとえ彼がどんなにセレブであろうとも、心の空隙を埋めることはできない。娘の存在が彼を救う、とか、そういうのではない。だが、娘の孤独と彼の孤独が共鳴する。父親とともに過ごす時間は、彼女にとって幸福な時間に見える。だが、実際は不安でしかない。母親の不在を敢えて忘れるために、ほんの少し、はしゃぐ。痛ましい。表面的には動じていないように見えるから余計に痛ましいのだ。そんな彼女に父親は気付かない。彼はただ彼女を楽しませるためだけに心を砕く。でも、彼の方も実は一見そっけない。自然体に見せるだけで、実はぎこちない。
映画はそんな2人をドキュメントしていくばかりだ。感情の起伏はない。淡々としている。娘をキャンプに送りだした後、再びひとりになる。走り去る車の後ろ姿を延々と見せる。それは最初のサーキットで、同じ場所をぐるぐる回るシーンと呼応する。それは停滞からの脱出を意味するのか。やがて、彼は歩き出す。
でも、最初にも言ったが、これは説明ではない。感覚的なものだ。98分の映画の中で、「何か」が変わる瞬間を描いた。その「何か」を言葉にすると陳腐になる。だから、今はただこの心地よさに酔いしれていたい。