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映画・演劇のレビュー

思い出の森田芳光。相米慎二。

2022-02-27 12:27:46 | 映画

年末に依頼されて「映画について、今思うこと」というようなお題で原稿を書いた。2000字程度の分量の予定で書いたのだが、依頼先から1000字に縮めて欲しいと言われたので、短くしたら何が何だかわからなくなってしまった。そこで、ここに最初の原稿を残しておこうと思う。2021年の映画について、ということで、僕がまず思ったのは「森田芳光」のことだった。今年(もう昨年になるけど)は亡くなられてちょうど10年だった。

 

思い出の森田芳光。相米慎二。 

                       広瀬泰弘

2021年、森田芳光が亡くなられて10年。相米慎二が亡くなられて20年。21世紀になって20年の歳月が流れた。映画は大きく変わりつつある。フィルムからデジタルに。劇場から配信に。そんなのはもう映画ではないから、と最初は思った。でも、そういう古い人間の方がもうすぐ少数派になることだろう、というか、もうなっているのだ。フィルム主義で映画館主義(映画は映画館で見るものだ、と頑なに拘っている)だったはずの僕だって、映画館より配信で見ている本数のほうが多い。気づけば映画がフィルもだったことなんかもう考えもしない。そんなふうにして時代はどんどん変わってくる。でも、そんな変化に実は十分な対応はできない。なんだか大好きだった映画が遠い。映画の大手製作会社(東宝や東映、松竹ね)はTV局のお抱え状態で、空虚なTVドラマの焼き直し大作映画を作る。実写映画はアニメ映画に圧される。その一方でスマホでも映画は撮れる時代。映画は特別なプレゼントではなくなった。

だから、思い出の映画に思いを馳せる。1980年代。子供の頃憧れた映画監督になる夢なんかもう忘れた頃、そして日本映画が最底辺に落ち込んでいた時代だ。きっと大好きだったはずの大切な映画はもう終わると思った頃。そこに颯爽を現れ、21世紀を待たずして去っていった相米慎二と、その10年後、60歳の若さで退場した森田芳光。彼らは日本映画界の救世主だった。もちろん、それ以前、変化は始まっていた。76年、角川春樹が『犬神家の一族』で映画界に殴り込みをかけ、長谷川和彦が30歳の若さで(当時はありえないことだった)『青春の殺人者』でデビューと同時にキネマ旬報ベストワン(主演男女優賞も、だ)に輝く。日本映画が変わろうとしていた時代。やがて80年代が始まる。

ここでは、そんなふたりの生きた80年代、その前半の日々をたどる。森田は1981年秋、『のようなもの』で35ミリ劇場用長編映画デビューした。8ミリの自主映画でしか映画を作ってこなかった彼がいきなり、しかも自費でこの商業映画を作った。入場料を確か995円に設定した。(千円出すと5円=御縁を返す!)そんなこんなの営業戦略、商業政策も凄いと思った。もちろん、作品が(作品も)素晴らしかった。その前年である1980年夏、相米はアイドル映画でしかないと思われた『翔んだカップル』(薬師丸ひろ子の第1回主演作)でデビューしていた。だが、当時は僕が大騒ぎするほどには世間からはあまり顧みられることはなかったのではないか。この2作品はとんでもない作品だったと、今では誰もが認めるだろうが、当時はそんなふうに評価した人は少数派でしかなかったはずだ。

ここで思い出を明確にするため、本箱の奥から『思い出の森田芳光』を取り出す。キネマ旬報社からまだ35歳だった森田の研究書(?)として出版された1冊だ。昭和60年11月に出版されている。その時彼はキャリアの絶頂だった。83年には『家族ゲーム』でキネマ旬報ベストワンを手にして、次に角川映画を手掛け薬師丸ひろ子主演『メインテーマ』で大ヒットを記録する。85年には代表作となる夏目漱石原作『それから』を公開した直後だった。この大胆なタイトル(『思い出の森田芳光』)はきっと森田自身の発案なのだろう。彼はかって「流行監督」という名刺をばらまいたこともある。そんな彼がデビューから4年間で得た実績を手にして、この本をものにする。この時代がその後日本を代表する映画監督として歴史に残す彼の原点だという事を刻印するためであろう。そんな傲慢さが好きだった。もちろん、このたった4年間で人生を走り抜けたわけではない。ここから彼の壮大なドラマが始まるのだが、それはこの時点では誰も知ることはなかった。

同じように相米も、81年には角川映画を手掛ける。再び薬師丸ひろ子主演で『セーラー服と機関銃』だ。これが爆発的な大ヒットとなるのだが、この後彼はヒット作を作ることはないし、角川春樹とも仕事をしていない。その後、彼の初期の代表作となる『台風クラブ』を85年に公開している。ますで資質の違うふたりは共鳴するように80年代前半の日本映画界を席巻した。

それからのお話はここには書かない。20世紀の最後の20年。ずっと彼らの映画をリアルタイムで見続けた。この先、まだまだいろんな映画が作られると信じた。もう映画は終わるのではないかと、あれほど恐れたのに、映画はなくならなかった。でも、ふたりは亡くなった。

相米は2001年9月、53歳の若さで没した。遺作となった『風花』(01年公開)まで13本の映画を遺した。森田は2011年12月に61歳で亡くなっている。遺作は12年3月公開となった『僕達急行 A列車で行こう』で、長編劇映画は27本作った。たまたま森田のほうが10年長く、10本ほど多く映画を作ることができた。

彼らがまず駆け抜けた80年代前半という時代は日本映画がどん底から復活していく時間だった。新しい才能が開花して、それを角川春樹が吸収し支持した。ふたりは同じように歴史に残る芸術作品としての評価だけではなく、観客を多数集めるヒット作も作った。まるで別々の方向を向くような映画を作りながらも、戦後の日本映画の黄金時代を牽引した木下恵介と黒澤明のように日本映画界を牽引し、大きく最悪の時代をリードした。あの時、あの時代に、どうしてそんなことが可能だったのだろうか。

日本映画は死のうとしていた。だからそこから新しい映画が生まれようとしていたのだ。そんな時流に乗っかり、彼らは今まで誰もが成しえなかったことを可能にした。どん底で生まれる新しい萌芽(邦画!)。それが彼らの映画だったのだろう。今なお、誰からも愛され、今年「森田芳光70祭」が行われ、相米没後20年特集上映が行われた2人の作家(作品)は、それを見た僕なんかよりずっと若い世代に、この先どんな影響を与えることになるのだろうか。そして、2020年代の日本映画がこの先どこに向かうのか、そんなこともなんだか楽しみだな、と思う。

 


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