別に本を読んでいないわけではないけど、最近、読んだ本の感想を書くことが滞っている。純粋に時間も余裕もないのが原因だけど、読書がただの習慣になっているからだ。もちろんこの文章もただの「習慣」なんだから、それでいいのだけど、書くことが義務になるのは嫌。でも、映画や芝居はなんだか義務になっていて、特に芝居と劇場で見た映画に関しては基本的に飛ばさず書くようにしている。(誰に言われたわけでもないのに)そんなこんなで、DVDで見た映画と小説が後回しになり、やがてはお座なりになるのだ。ということで、小説を書くのは(もちろん僕が実際に小説を執筆する、という意味での「書く」ではなく、「小説の感想を書く」のは、なのだが)実に久しぶりだ。きっとその間20冊くらい読んでいる。かまり面白い本も多数読んだ。時間があれば忘れる前に書きたい。
さて、今は、今日読み終えてこの小説だ。これはとても嫌な小説で、だから、気になる。この本の直前に読んでいたのが『定年不調』という新書で、今の自分の鬱の原因が事細かに書かれてあるので、笑えた。だけど、本当はあまり笑えない。
これは3つの中編小説の連作で、3つとも同じテーマ。鬱で引きこもり。それぞれ症状は違うし、『生きるからだ』の主人公は一応ちゃんと会社には通っている。でも、途中で一人は「おれ、やっぱ会社やめるわ」と言う。もうひとりは川に飛び込む。
2人の男の半分同居生活。でも、ひとりは家庭もある。妻とは取りあえず普通にやっている。でも、週に3日くらいはその友人宅で過ごす。そんな彼らの危うい関係が描かれる。だが、この2人は同性愛ではない。ただ、気が合うだけ。会社の同僚でもある。気が合うのではなく、ただそこにいることが、まるで気にならないのだ。空気のような存在だからいてもいなくても同じ。さらにそんなふたりのところに、彼の新しい恋人が加わる。彼女も同じパターン。ただ、そこにいるだけ。
人と必要以上に関わらない。関わらなくても生きていける。でも、もちろんそんな生き方がいい、と思っているわけではない。そんな危うい関係が描かれる。それは他の2編も同じだ。仕事を辞めて、毎晩夜中に徘徊する。偶然出会った同じように夜中に外で過ごす小学生。深夜の2時から6時まで河原で過ごす。その小学生を、彼は、昔、子どもだった頃の椚くん(同級生)と重ねる。少年を椚くんと呼んで接する。彼が椚くんになんとなく似ていたから、それだけ。冒頭の『しずけさ』という小説は、それだけが淡々と綴られている。もどかしい話だ。まるで先にお話は進まない。彼らはそこでただ停滞しているだけ。いや、そんな停滞する時間を生きている。(もちろん、愉しんでいるわけではないけど)今の自分を認めるだけの勇気はないし、それが正しいなんてゆめゆめ思わない。心地よいはずもない。
表題作『愛が嫌い』が、いちばん、まだ心地よいと言われたら心地よいかもしれない。しゃべらない2歳児の保育園のお迎えをする男の話。友人夫婦のヘルプで週3回お迎えに行く。母親が帰るまでの時間。せいぜい30分とか、1時間。彼は夜間のバイト(ファミレス)をしている。友人夫婦は特に旦那が多忙で育児に関われない。何かが壊れ始めている。彼はそんな家族に関わりながら、自分自身は、ひとりで生きているし、ひきこもりであることを、ただ傍観している。アクションを起こさないし、起こす気もない。それは3編の共通する姿勢だ。
これでいいわけではない。だけど、今はこれがいい。やがて、何かが変わってくるはずだ。だけど、今はそれを待つ。いや、待つわけではない。何もしないで、現状に流されているだけ。でも、それでいい。おとなしくこうしていれば、きっと何かが変わるはず。その時は、その時の話だ。
これを読みながら、だんだん、それでいいやん、と思い始めた。さいしょのもどかしさは何だったのだろうか。現状を変えたいという焦りは何も生まない。変えられるのなら、とっくにそうしている。無理だからこうしているのだ。開き直りではない。これもまた、自分なりの戦い方だ。たぶん。