『パイドパイパー』以降、どこに向けてショウダウンが進んでいくことになるのか。そんな方向性を占う公演になった。もともとこの作品はこの劇場(船場サザンシアター)で初演して、それまでの林遊眠一人芝居から進化発展させたものだった。4人芝居だったはずだ。それをさらに大人数のものに仕立て直して上演する。(今回のキャストは7人である)だが、これはあくまでも、それまでの1人芝居のやり方を踏襲したものだ。そういう意味では昨年ヘップで上演した大作『パイドパイパー』も同じパターンなのだ。お話を語るというのが基本スタンスで、語り部は林遊眠である。それを大人数で演じるか、ひとりでするかの違いだけだ。だが、その違いがこの集団の場合は大きい。
狭い劇場に拘るのも、そのスタイルをいかに有効に見せるか、による。狭くても快適で贅沢な空間というコンセプトのこの劇場と、この劇団の姿勢が見事にマッチした。だから、彼らはこの劇場を離れない。だが、そこで、今回はやれるだけの大人数での従来の芝居に挑戦する。言わずもがなだが、この芝居は林遊眠の一人芝居としても、十分成立するものだ。4人から7人にキャストが増えたのも、彼女の役を減らしただけ。今回は基本、主人公であるミルキのみを彼女は演じる。
さて、そういうスタイルで上演した本作品はどんな作品になったか、というと、普通のエンタメ作品になった。もちろん、実によく出来ているし、感動的であることは否めない。だが、本来あったたったひとりで世界を支えるというコンセプトが曖昧になっているのも事実であろう。林遊眠しかいない、という異常事態がこの劇団の魅力で、そこを豪華にすると、本来の持ち味が損なわれることは、最初からわかりきった話だろう。それはこの作品の初演においてもわかっていたことだ。では、なぜ、そんなわかりきっとことに、あえて挑戦したのか。問題はそこに尽きる。
そして、答えは簡単だ。やってみたかったから。それだけ。イメージできてもそれはただのイメージでしかない。実際やるのとは別問題だ。だから、やる。『パイドパイパー』を成功させた以上、やらないわけにはいかない。
その結果は、先にも書いたとおりだ。林遊眠がいつもほどは輝かない。そんなこと、当然だろう。芝居が彼女をそこまで追い詰めていないからだ。石の巨人ゴーレムと、小さな少年。この作品では、そんなイハナとミルキの大きさの対比が描けない。複数の役者がイハナを演じ、そのセンターで林遊眠のミルキがいる、という図式は、あまり効果的ではない。見えないイハナの存在のほうが、その大きさが伝わる。もちろん、そんなこと最初からわかっていたことだ。舞台上でたくさんの役者が右往左往しても、この壮大なお話を実現しない。それも、わかっていた。だからこそ、この困難な芝居に7人で挑んだ。
絶対の存在としての彼女ではなく、林遊眠をひとりの役者として舞台に立たせることが可能なのか。それが今後のショウダウンのひとつの挑戦になりそうだ。彼女を中心にした芝居ではなく、彼女も共存する世界を作れるか。そこで彼女はどんなふうに戦うことになるのか、である。もちろんそれ以外にもいろんな可能性がある。まだまだお楽しみはこれからなのだ。