前作と同じようにタイトルは『僕等がいた』とだけ出る。後編という文字は一切出ない。そのこだわりは三木孝浩が、この作品を前後編とは、位置付けしていない、ということの証明となる。では2本で1本なのか、というと、それも違う。これは2つの『僕等がいた』という映画なのである。4時間の大作映画を2回に分けて公開する、という形を踏んではいるのだが、それは興行上の問題であって、作家である三木孝浩は、自分の美意識でこの作品を作り上げる。商業映画だが、単なるお仕着せ企画ではなく、映画作家である自分の想いの詰まった作品として作り上げる。そんなところが、好きだ。一見すると、大ヒット漫画の安易な映画化作品、というレッテルで見られそうな作品なのだが、そうではない。こだわりの一品だ。
前作はあれで完結した。話の途中で終わったのではない。1本の独立した映画として、ちゃんと決着がついた、と思う。あれから5年後が描かれる本作は、あの話の続きではあるが、これもまた独立した作品だと思うほうがいい。前作は、つらいこともあったけど、「幸せな高校時代」を描いた作品だった。お話はあれで終わりだ。だから、前にも書いたように、この2作目は必要ない。これは後日譚でしかない。終わった映画の後の、本来なら映画にはならない物語である。しかも、そこには「その後の不幸な時間」しか描かれない。まるで嘘のように不幸な出来事が続く。現実なら、ここまでドラマチックではない。だから、これは絵に描いたようなお話でしかない。ここにはリアルのかけらもない。きれいごとを、ただきれいなままに描く映画だ。普通ならこんな映画は見ていられないはずだ。なのに、この2時間をみんなは息をつめてみつめることになる。
夢の終わりを見続けるように。そして、そこには頭の中で作られた陳腐なお話が綴られることとなる。こんなのは現実ではない。そんなことは10代の女の子たちにでも、見ればわかる。しかし、ここにある生きることのエッセンスは、ほんものである。生き続けることの傷みとしっかり向き合いながら、その先に未来の自分たちが生きる道を見いだせたなら、すばらしい。三木孝浩監督のねらいはそこにある。
彼が『ソラニン』で描いたことを、ここでも、もう一度、前後編4時間の大作として見せてくれた。あの時はひとりを死なせたが、今回は2人を別れさせた。そして、そこから、話を始める。そして、どんなに痛ましい日々であろうとも、誠実に、懸命に生きたなら、その先には必ず未来がある、ということを描く。
確かにこのハッピーエンドは甘いし、それはきっと三木孝浩の考えとは少し違うのだろうけれども、この映画を見る子供たちのために、あのラストを用意した。現実はあんなふうにはいかないことなんか、みんなもよく知っている。だから、映画の中だけでは、彼女たちに夢を見せさせてあげるのだ。それは、4時間、ずっと息を詰めて主人公の2人の愛をみつめてきたことへのご褒美である。少なくとも、それくらいには、人生は美しいのだ。それもまた事実である。
作品は最初にも言ったように別々の映画『僕等がいた』として独立する。そのうえで、セットで1本という捉え方も当然出来るようになってある。さらには、本当なら別れたままで終わるのが、人生なのに、プレゼントとしてのサービスであるラストも用意した。至れり尽くせりの純愛映画だ。
前作はあれで完結した。話の途中で終わったのではない。1本の独立した映画として、ちゃんと決着がついた、と思う。あれから5年後が描かれる本作は、あの話の続きではあるが、これもまた独立した作品だと思うほうがいい。前作は、つらいこともあったけど、「幸せな高校時代」を描いた作品だった。お話はあれで終わりだ。だから、前にも書いたように、この2作目は必要ない。これは後日譚でしかない。終わった映画の後の、本来なら映画にはならない物語である。しかも、そこには「その後の不幸な時間」しか描かれない。まるで嘘のように不幸な出来事が続く。現実なら、ここまでドラマチックではない。だから、これは絵に描いたようなお話でしかない。ここにはリアルのかけらもない。きれいごとを、ただきれいなままに描く映画だ。普通ならこんな映画は見ていられないはずだ。なのに、この2時間をみんなは息をつめてみつめることになる。
夢の終わりを見続けるように。そして、そこには頭の中で作られた陳腐なお話が綴られることとなる。こんなのは現実ではない。そんなことは10代の女の子たちにでも、見ればわかる。しかし、ここにある生きることのエッセンスは、ほんものである。生き続けることの傷みとしっかり向き合いながら、その先に未来の自分たちが生きる道を見いだせたなら、すばらしい。三木孝浩監督のねらいはそこにある。
彼が『ソラニン』で描いたことを、ここでも、もう一度、前後編4時間の大作として見せてくれた。あの時はひとりを死なせたが、今回は2人を別れさせた。そして、そこから、話を始める。そして、どんなに痛ましい日々であろうとも、誠実に、懸命に生きたなら、その先には必ず未来がある、ということを描く。
確かにこのハッピーエンドは甘いし、それはきっと三木孝浩の考えとは少し違うのだろうけれども、この映画を見る子供たちのために、あのラストを用意した。現実はあんなふうにはいかないことなんか、みんなもよく知っている。だから、映画の中だけでは、彼女たちに夢を見せさせてあげるのだ。それは、4時間、ずっと息を詰めて主人公の2人の愛をみつめてきたことへのご褒美である。少なくとも、それくらいには、人生は美しいのだ。それもまた事実である。
作品は最初にも言ったように別々の映画『僕等がいた』として独立する。そのうえで、セットで1本という捉え方も当然出来るようになってある。さらには、本当なら別れたままで終わるのが、人生なのに、プレゼントとしてのサービスであるラストも用意した。至れり尽くせりの純愛映画だ。