1994年はポールと2人でバックパック、1997年は日本から従姉も参加して3人でバックパックでカッパドキアへ行った。
初めての94年の時は、イスタンブルから直接カッパドキアへ行くには夜行長距離バスしかないと言われて、しぶしぶ夕方のバスに乗った。トルコの男性はほとんどがタバコを吸う。バスの中ではタバコを吸う人は後ろの座席と決まっていたが、やっぱり車の中に煙が回って非常に不愉快だった。
バスは余りリクライニングが効かなくて、眠りづらい。時々お店かタベルナの辺りで停まってトイレブレイク。
ほとんど眠れないまま明け方4時過ぎ、カッパドキアの周辺の丘に達した。
カッパドキアは周辺を山に囲まれた広大な盆地で、夜明け前のブルーの明かりの中にあちこちお家の明かりやキノコ岩にともる明かりがこの世とは思えないメルヘンの世界だった。今でもあの景色は私の記憶に刷り込まれている。
バスは途中からローカルの子供たちが乗ってくる通学バスに早変わりし、カッパドキアの大きな町(名前を憶えていない)に着いたときは、バスは超満員だった。するとトルコの生徒たちが皆で私とポールのリュックをもって降ろしてくれたり、皆が英語で話しかけてくれたり、まるでVIP の待遇。
バスドライバーまで私の結婚指輪を見てから急に愛想が良くなり、にこにこしていた。
予習をしないで出かけたから、こんな異様の風景にびっくり、そして早速周辺を歩いて回るガイドツアーをとった。
こんな面白い岩があちこちにできたのは地球の創成期、2か所の火山からの灰が交互に堆積して、それらが風雨によって削られてこんな面白い風景になったものだという。
すべてが火山灰だから、岩は柔らかく、このようなキノコ岩を掘って部屋を作り階段を作って2階、3階と登り窓や入口を作っていた。だから一家は一つのキノコ岩で何世代も生活していたという。
村は群と言うほうが良いような、一塊づつになって生活している。
ツアーはこのような谷間(Ihlara Valley)を歩きまわり、岩壁に隠れキリシタンの小さな教会を見せてもらった。
どんなに小さな教会でもこうしてデコレーションがされている。
石灰岩だから数千年の間に雨に侵食されて、壁が崩れ落ちてしまう。
私達が泊まった民宿も、岩を掘りぬいてできたベッドルームでとっても感激した。
ここは地下都市の入り口、1963年 お百姓さんが自分の農地の巨大な石をどかしたところ、大きな穴が開いていてここが地下都市の入り口だった。今では最高のドル箱になっている。
地下都市は85メーター深い井戸の周りに何層にもなった部屋が作られ、井戸は水をくむだけでなく空気穴でもあった。その昔モンゴールや回教徒の襲撃に備え、この地下都市では食料が蓄えられ、家畜まで収容する人口2万人が生活できる大都市だった。地上から2階下フロアーには大広間があり、学校があったという。5階下には教会があった。どの部屋にも2か所の出入り口があったが、ただ一つの部屋だけは1つの入り口だけ。それは死体置き場で、その小さな部屋に入った時、もしここで地震でも起きて入り口がふさがったらと瞬間思ってゾ~とした。
上2枚の写真は絵ハガキで中では撮影禁止だった。トンネル内には巨大な丸石が備えられてもし外敵が襲ってきたときは、中から丸石を転がして入り口をふさいでも絶対外から開けられない仕組みになっているという。
生きるためには人々はあらゆる知恵を絞ったものであろう。ここはトルコが回教徒の国になりこの地下都市で隠れキリシタンたちが生活していたが、1923年には完全に見捨てられ塞がれ忘れ去られていた。
川で洗濯する女性たち、
牛やロバを世話する男の子。
5月下旬エーギアス山(Mt. Aergius)には雪が残っている。
トルコ人のおばちゃんが子羊を抱いていたので写真を撮ったら、私にも抱いて写真をと抱かせてくれた。
カッパドキアでは数日のんびり見て回り、マーケットで蜂蜜を買ったり果物を買ったり楽しかった。有る時二人でキノコ岩の近くを散策して歩いていたら、向こうにいたおじさんが何か言っている。いったい何を言ってるのかとニコニコしながら二人で行って見たら・・・ここを歩くな!!! と言っていた。あとで二人で苦笑い。火山灰のふわふわの土ではいったい何が植えられるかと思った。
ローカルの女性たちは農閑期にこんな素晴らしいカーペットを織る。