Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

1994年トルコ旅行のエピソード

2022-07-23 07:06:13 | トルコ旅行

このところBBC4 では2008年に放映されたフランチェスコの地中海航海(Francesco's Mediterranean Voyage)の再放送をしている。この人ヴェニスの貴族の生まれで多彩なキャリアの持ち主。日本でも放映されたかもしれない。

で・・・私はこの人のことを書きたいのではなく、昨夜のテレビで、彼がトルコ南西部のフェシエ(Fethiye)へ訪れたそのことが書きたかった。

テレビを見ていたら私たちが1994年5月から6月にかけて旅した懐かしい場所が映った。

 

コピー機の具合が良くなくて、はっきり見えないが、アンタルヤ(Antalya)から西の広大な岬はリチア(Lycia)と呼ばれこの地方の人々はリチアンと呼ばれる。

1994年私たちはリュックを担いで、アンタルヤからバスでフェシエ(Fethiye)へ向かった。トルコは余り鉄道が発達していなくて、当時長距離バス会社3社くらいが毎20ー30分おきくらいに発車していた。バス道路は地図で見てもわかるように海岸の曲りくねった道を高速で走る。

片側断崖絶壁の山を切り出した道路が多く、対向車が見えない曲りくねった道をあんなに飛ばして事故を起こさなければいいがと心配になる。

約4時間くらいでフェシエに着いた。

 

 

 

 

 

 

この辺りはエジプト時代から栄えた地方で、がけに掘られたテンプル・墓地はギリシア人たちのものと言われている。紀元前2000年の遺跡がいたるところにあり、陸路よりも船で遺跡周りをする方がいいと言われた。

歴史も何も知らない私達だったけれど、こんなすごい遺跡を見て大感激。

泊まった宿は英語が話せる若い人がいて、安かった。

その夜あまりの暑さに目が覚めて、もちろん冷房などと言うものはない。とうとうたまりかねて、窓を開けることにした。

すると待ってましたとばかりに蚊の大群、防ごうにもシーツが短くて頭を隠せば足が出てしまう、脚を隠せば頭の周りですごい蚊のうなり声。

悶々としていたら早朝4時、急に大きな声で朝のお祈りが始まった。なんとこのホテルの横がモスクだった。知らなかったとは言えこれはあんまり。

5時過ぎるとホテルの前の道路を行きかうモペッツの音がドドドドドドドドド・・・・・響いてとっても寝ておれるものじゃない(泣)

本当はこの辺りに実際生きていたと言われる、サンタクロース(セント・ニコラス)が住んでいた、という教会を見てくる予定だった。

デモもう一晩このホテルに泊まりたくないと、お金を払って早朝のバスで前日来た道を帰って行った。

3時間後、ファセリス(Phaselis)の町に個人の小さなホテル( ベッド&朝食)を探して投宿した。そこで気が付いたのは昨夜のホテルでパスポートを貰ってこなかったこと。

ポールはすぐ電話してバスで送ってくれないかと頼んだ。そして二人で近くにある火の山へ出かけた。

 

ここチマエラ(Chimaera)は岩の間から天然ガスが出ていて永遠に燃えているのだという。

(1994年ごろはまだデジタルカメラがなかったから拙い写真で申し訳ない。)

珍しいものを見てきたとルンルンで帰って来たのに、パスポートが届いていない。

ポールはまたホテルに電話して聞くところによれば、バスで無くなったら困るのは私達だから、取りに来いと言われた。

それで早朝のバスで片道3時間かけてポールは出かけて行った。

私が起きて朝食をと二人分用意された食事を私だけと言っても、年より夫婦のホテルオーナーには英語が通じない。彼らはポールが私を置いて出て行ってしまったと思っているらしく、気のどくそうにテーブルのそばに座って私を眺めている。

ポールは3時間後にパスポートを貰って、彼がどこの会社のバスで何時頃に着くかを私に電話してくれと電話代を払って頼んだから、電話がかかってきた。

それであと1時間くらいで着くであろうとタクシーを呼んでもらい、私とポールのリュックをもってバス停へ。

このメインロードのバス停は3か所あって私は図を書いて真ん中のバス停へやってくれと頼んだのに・・・・。 運転手は図も見てなかったようだ。

バスは何台も来て去って行った。そしてポールの乗ったバスが来て通り過ぎた。

50メータくらい走って急停車 !!!

ポールは私のかぶっていた赤い麦わら帽子がちらっと見えて、大声でSTOPと叫んだ。タクシーの運転手が降ろしてくれたバス停は左のバス停だったのだ。ポールが私の赤い麦わら帽子に気づかなかったらいったいどうなっていたか判らない。 

それ以来二人でどんなにリュックを担いで旅しても、決してパスポートを渡さず宿泊は前金で払うことにしていた。

本当に忘れられない思い出。

 

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ウプサラ( Uppsala) スエーデン

2022-07-23 05:55:55 | スカンディナビア キャンプ旅行 2007年

今までのキャンピング旅行でも、最低の設備を有するストックホルムのキャンプサイトに、ぶつぶつ不平を云いながらも、4泊もしてほとんどの観光地を網羅し、5日目の朝 62Km北 のウプサラへ出発しました。

サイトには朝11時頃に到着し、ストックホルムで溜まりにたまった洗濯物を洗濯機2回廻してきれいにしました。この日は素晴らしい天気で、キャンプサイトに植えられている木々の幹に洗濯紐を縛り、シーツから布巾まで全部乾して満足しました。

 

午後4時過ぎにはすべて乾いて取り入れ、さてウプサラの町を見ましょうと出掛けました。運河に沿ったこの街は大学街でスエーデンでもっとも古い総合大学があります。私たちの行ったこの時期は夏休み、それに午後5時過ぎの町は大聖堂も観光案内所も閉まっていて、のんびり散歩するだけでした。

 

青空を映して明るい運河も、水は濃い茶色で、川渕で寝転んで読書している若い男女や、魚釣りをしている親子など平和そのものでした。

 

翌朝もっと北のダーラナ地方へ行く途中、ウプサラ市から15分ほどのガムラ・ウプサラへ寄り道しました。

ここは巨大な墳墓遺跡があり、4世紀から6世紀の政治、宗教の中心地であったとのことです。

古い教会と3つの連なる丘は過去の施政者の権力の誇示なのだろうと思いました。

横の情報の乏しい昔、何処の国でも己の死後までも権力を誇るために、巨大な墳墓を残した人々、それはエジプトであれ、メキシコであれ、日本であれ、このような北の国でも人間の考えることは同じなのかと思いました。

 

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