添付の写真。
きっとみなさんには単なる更地にしか見えないだろう。
しかし、今から約30年前、ここは地元の建築会社の
資材置き場で、小学生の僕らにとって格好の遊び場
だったのだ。
もちろん、立入禁止である。
しかし、小学生にとって“立入禁止”という言葉は、
釣り針に付いた餌のような言葉だった(笑)
危ないと分かっていても、
入ってしまう。
入らされてしまう。
入らなければいけない。
そんな場所だったのだ。
いろんな遊び道具があった。
もちろんそれは、本来は家の建築に使用する足場の
一部であったり、セメントを固める型枠の板であったり、
水道を通す土管であったりするわけだが、ユンボや
ショベルカーに勝手に乗り込み、遊んでいる10歳足らず
のガキに、そんなことが理解できるわけがない。
足場の一部は屋根になり、型枠の一部はいくつも集められて
壁になり、土管とつなぎあわせられて、僕らの“基地”となった。
基地。
この言葉ほど男の子を魅了する言葉を、僕は知らない。
今でもこの言葉をつぶやくと、胸の奥で何かがビクンッと反応する。
基地は、簡単に出来るものじゃない。
友達と共同で作り上げてゆく。
組み立ての構想が上手いヤツは設計士の立場。
面白い発想をするヤツは、インテリアデザイナーの立場。
重いモノを運ぶのが得意なヤツは、大工の立場。
自然と役割分担が決まるのだ。
そして、何よりも基地は危ない。
基地を作る資材置き場は、釘やガラスの破片が方々に散らばっている。
僕も何度もケガをした。
左足の太腿には、8歳の頃、釘で引き裂いてしまった10cmほどの傷跡が
今もクッキリと残っている。
友達も何人もケガをして、その都度、町の外科病院に運び込まれて
何針も縫い、手足や頭に包帯を巻いて、翌日学校に現れたものだった。
それでも、僕らは性懲りもなく、基地を作り続けた。
なぜなんだろう?
親になった今、素朴な疑問が僕の中に生まれる。
もし、今、7歳の息子が近所の資材置き場で友達とあの頃の僕らと
同じように遊んでいるのを見つけたら、どうするだろう?
「危ないから、すぐにやめろ!」と血相を変えて叫ぶだろうか?
それとも、「懐かしいなぁ、お父さんもよくやったぞ」と微笑む
だろうか?
たぶん、その両方とも違うような気がする。
「気をつけろよ」
おそらく、それだけしか言わないのではないだろうか?
どっちにしても、それらはすべて推測でしかない。
なぜなら今の子どもたちは、絶対に危ない場所に行かないように、
学校や家庭から強く言いつけられているし、子どもたちもその言葉に
対して不思議なほど従順だ。
何よりも、最近は、建築会社の資材置き場自体が、子どもたちが遊ぶ
ような場所からすっかり消えてしまった。
それは、きっと、いいことなのだと思う。
でも、何かとても大きくて大切なモノを、子どもたちから
大人が取り上げてしまったような気がしてしまうのも、
僕の中の偽らざる気持ちだ。
まだ自身が生きてゆく世界が狭く小さかった男の子にとって、
“基地”という言葉と代物は、金科玉条の言葉と代物だった。
いずれ男の子は、少年となり、思春期を迎え、金科玉条の
言葉と代物は、自然と別の言葉と代物に変わってゆく。
僕は、こう思う。
“基地”とは、男の子がそうやって独り立ちしてゆく直前の、
“最後の砦”のような場所だったのだろう、と。
親とも、兄弟とも、学校の教師とも、好きな女の子とも完全に
隔離された、友達とだけで作り上げた聖域(サンクチュアリ)。
僕にとって“基地”とは、そんな場所だったのだ。
僕らの基地は、完成から一週間足らずで、建築会社のおじさんに
見つかり、あっという間に解体された。
あの時の、悔しさと淋しさは、今も忘れてはいない。
その建築会社は、その後、廃業の憂き目に立ち、資材置き場は野ざらしに
なってしまった。
当時、高校生になっていた僕は、そんな朽ち果てた資材置き場には、
もう見向きもしなくなっていた。
それから20年の時間が流れ、僕はまた基地に戻ってきた。
今、僕らの基地だった資材置き場は、キレイな更地になって、
簡易の駐車場になっている。
いつ、こうなったのか僕の記憶も定かではない。
基地の跡地にたたずむ僕の横を、数人の小学生たちが
自転車で走り抜けた。
きっと、近くにある“公園”に、遊びに行くのだろう。
危ない場所がなくなるのは、いいことだ。
でも大切な何かまで更地にされてしまったような気がするのは、
単に僕が感傷的になっているからだけだろうか。
きっとみなさんには単なる更地にしか見えないだろう。
しかし、今から約30年前、ここは地元の建築会社の
資材置き場で、小学生の僕らにとって格好の遊び場
だったのだ。
もちろん、立入禁止である。
しかし、小学生にとって“立入禁止”という言葉は、
釣り針に付いた餌のような言葉だった(笑)
危ないと分かっていても、
入ってしまう。
入らされてしまう。
入らなければいけない。
そんな場所だったのだ。
いろんな遊び道具があった。
もちろんそれは、本来は家の建築に使用する足場の
一部であったり、セメントを固める型枠の板であったり、
水道を通す土管であったりするわけだが、ユンボや
ショベルカーに勝手に乗り込み、遊んでいる10歳足らず
のガキに、そんなことが理解できるわけがない。
足場の一部は屋根になり、型枠の一部はいくつも集められて
壁になり、土管とつなぎあわせられて、僕らの“基地”となった。
基地。
この言葉ほど男の子を魅了する言葉を、僕は知らない。
今でもこの言葉をつぶやくと、胸の奥で何かがビクンッと反応する。
基地は、簡単に出来るものじゃない。
友達と共同で作り上げてゆく。
組み立ての構想が上手いヤツは設計士の立場。
面白い発想をするヤツは、インテリアデザイナーの立場。
重いモノを運ぶのが得意なヤツは、大工の立場。
自然と役割分担が決まるのだ。
そして、何よりも基地は危ない。
基地を作る資材置き場は、釘やガラスの破片が方々に散らばっている。
僕も何度もケガをした。
左足の太腿には、8歳の頃、釘で引き裂いてしまった10cmほどの傷跡が
今もクッキリと残っている。
友達も何人もケガをして、その都度、町の外科病院に運び込まれて
何針も縫い、手足や頭に包帯を巻いて、翌日学校に現れたものだった。
それでも、僕らは性懲りもなく、基地を作り続けた。
なぜなんだろう?
親になった今、素朴な疑問が僕の中に生まれる。
もし、今、7歳の息子が近所の資材置き場で友達とあの頃の僕らと
同じように遊んでいるのを見つけたら、どうするだろう?
「危ないから、すぐにやめろ!」と血相を変えて叫ぶだろうか?
それとも、「懐かしいなぁ、お父さんもよくやったぞ」と微笑む
だろうか?
たぶん、その両方とも違うような気がする。
「気をつけろよ」
おそらく、それだけしか言わないのではないだろうか?
どっちにしても、それらはすべて推測でしかない。
なぜなら今の子どもたちは、絶対に危ない場所に行かないように、
学校や家庭から強く言いつけられているし、子どもたちもその言葉に
対して不思議なほど従順だ。
何よりも、最近は、建築会社の資材置き場自体が、子どもたちが遊ぶ
ような場所からすっかり消えてしまった。
それは、きっと、いいことなのだと思う。
でも、何かとても大きくて大切なモノを、子どもたちから
大人が取り上げてしまったような気がしてしまうのも、
僕の中の偽らざる気持ちだ。
まだ自身が生きてゆく世界が狭く小さかった男の子にとって、
“基地”という言葉と代物は、金科玉条の言葉と代物だった。
いずれ男の子は、少年となり、思春期を迎え、金科玉条の
言葉と代物は、自然と別の言葉と代物に変わってゆく。
僕は、こう思う。
“基地”とは、男の子がそうやって独り立ちしてゆく直前の、
“最後の砦”のような場所だったのだろう、と。
親とも、兄弟とも、学校の教師とも、好きな女の子とも完全に
隔離された、友達とだけで作り上げた聖域(サンクチュアリ)。
僕にとって“基地”とは、そんな場所だったのだ。
僕らの基地は、完成から一週間足らずで、建築会社のおじさんに
見つかり、あっという間に解体された。
あの時の、悔しさと淋しさは、今も忘れてはいない。
その建築会社は、その後、廃業の憂き目に立ち、資材置き場は野ざらしに
なってしまった。
当時、高校生になっていた僕は、そんな朽ち果てた資材置き場には、
もう見向きもしなくなっていた。
それから20年の時間が流れ、僕はまた基地に戻ってきた。
今、僕らの基地だった資材置き場は、キレイな更地になって、
簡易の駐車場になっている。
いつ、こうなったのか僕の記憶も定かではない。
基地の跡地にたたずむ僕の横を、数人の小学生たちが
自転車で走り抜けた。
きっと、近くにある“公園”に、遊びに行くのだろう。
危ない場所がなくなるのは、いいことだ。
でも大切な何かまで更地にされてしまったような気がするのは、
単に僕が感傷的になっているからだけだろうか。