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詩人の不安
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イタリア広場
ジョルジョ・デ・キリコは、形而下的世の中に、飽き飽きしていたのだろう。
自ら築き上げたものをいとも簡単に捨て去り壊し、かと思えばまた拾い上げてみたり、評価の定まった自分の絵を何枚もコピーして見たりと、その行動は不可解だ。
おそらく、ものの存在意義や実在そのものを安穏と妄信している者たち、自ら生した世界に安住する者たちを、驚かせたかったのか?
おや、どことなくルックスも、なんとなくその行動も、日本のある政治家に似てはいまいか?
芸術家と政治家、及ぼす影響は大きいけれど、その責任の重さにはかなりな差があり、思想行動の自由度においては芸術家に及ぶべくもない。
「詩人の不安」は、子供のころ学習百科で見て以来、心の美術館の収蔵作品の一つになった。
無風無音のとびきり乾燥した陽射しの強い世界に、ただ置かれるトルソとバナナが、諦めのよい悲しみと平明な不安を淡々と表している。
遠くを走る列車の汽笛もレールのうなる音もしなく、たなびく煙は静止して、まるで遠景を描いた舞台背景の書き割りのようだ。
こればかりじゃない、キリコの絵は、まさに書き割りで構成されているように思える。
ともすると、役者不在のものも多い。
これが、キリコの絵の独特の雰囲気を演出しているのだろう。
ふむ、確かにこの世の中、書き割りでできているのだな。
キリコもかの政治家も、そう思って配置転換をしばしばするのだろうか?
しかし、人間のとりあえずの実社会でそれを行うのは、たやすくはないな。
さて、キリコは、どう見る。
形而下のことには、興味ないと言い放つのか。
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