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アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

奇想の画家アルチンボルドの錬金術

2011-12-03 23:53:28 | アート
 春 (ルーブル蔵)

「美の巨匠たち」奇想の芸術、アルチンボルド編。
16世紀に活躍したマニエリスムの系譜、イタリア人画家で、ウィーン:パプスブルク家の皇帝に仕えた。
様々なものを組み合わせて描いた肖像画風の絵で、象徴と寓意を盛り込んだ、当時としては奇想天外な絵を次々に世に送り出した。
3代の皇帝に仕えた中でも、マクシミリアン2世の治世に描いた4枚連作の”四季”は、いたく皇帝に気に入られ、ヨーロッパ各国に複製画を寄贈。
そのうちの一連作が、フランスのルーブル美術館に所蔵されている。

番組では、アルチンボルトの時代、錬金術が流行っていて、その思想がこうした奇想の絵を生み出すきっかけの一つになったのではといっていた。
それは、普通のものを完全なものへと変化・精錬させるという考え方だ。
ならば、アルチンボルドの絵は、なかなかうまくそれを成し果せたのかもしれない。
”春”は、春に咲く花々を使い、人生の春を象徴する少女の肖像画を描き、”秋”ならば、円熟した壮年の男性像に仕立てるというように。
また、当時のヨーロッパにおいて広大な領地を治めた神聖ローマ帝国に産する様々なものを使うことでも、国家の威信と宣伝を兼ねた。
あとは、”四台元素”の4連作とも対を成す構成になっている。
”春”は”大気”、”秋”は””大地”の組み合わせだ。
このような意味づけも、見た目の奇抜さで、子供遊びの落書きの延長上としか見られないかもしれない。
いや、それこそが、錬金術という、いかがわしくも科学に目覚めた時代精神ではないか。
その精神を持って、アルチンボルドは、真面目に遊んで描いた画家なのだと思う。
ただの真面目は、行き詰まり、柔軟な思考を阻むだろう。
一見、無謀でくだらないという思いつきが、次なる局面を展開してくれることは、意外とあるのだ。

あるものを見立て、違うものを引き出し置き換える、このような遊び感覚は、文化の爛熟期に出現する。
以前書いたが、歌川国芳の”寄せ絵”も、アルチンボルドに通じる。
そうだ、”見立て”は、文人の言葉遊びとして、日本に根付いている。
落語では、扇子や手ぬぐいが、いろいろな小道具として見立てられ使われているではないか。
アルチンボルドは、まだ見立て方に硬さがあるかもしれないが、当時のヨーロッパではかなり異端だったのではないだろうか。

遊ぶ、真面目に楽しく遊ぶ、柔軟な思考を持つことは、大切だと思った。
特に、いらないもの代表格の芸術にとっては、それが生命力なのだから。

 秋 (ルーブル蔵)

丘陵地に造られた古代ローマの街並み、ローマ:ヴァチカンから東へ

2011-12-03 00:04:54 | 街たち
「世界ふれあい街歩き」イタリアのローマ。
ヴァチカン市国とローマを結ぶサン・タンジェロ橋は、テベレ川に架かり、ベルニーニの彫刻で飾られている。
17世紀に活躍したバロックの巨匠ベルニーニは、時のローマ法皇に「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにある」と言わしめたほど、ローマには彼の彫刻が溢れている。
サン・ピエトロ寺院の広場は、ベルニーニの設計によるもの。
広場を囲む回廊の四重に並べられた372本の円柱は、広場のある一点以外から見ると重なり合って壁のようになり、その一点からはみると、前後の柱が重なって、外の空間が見渡せるようになっている。
それは、”閉ざされた空間”と”開かれた空間”を両方表現することによって、神の救いと神への祈りは本来開かれたものであるというメッセージが込められているという。
また、ローマ市中にある噴水にも、ベルニーニの彫像が使われている。
”プロセルピナの略奪”の彫刻に見られるように、ベルニーニの彫刻は、肉体に食い込む指や流れる涙からもわかるが、非常に肉感的で表現が誇張されている。
大都市に相応しい、大胆かつ躍動感溢れ、ロマンティシズムもある。
まさに、ローマが、ベルニーニ美術館といった具合だ。

ベルニーニの”四大河の噴水”があるナボーナ広場から東に向かうと、世界最古のアーケード街の”トラヤヌスの市場”の遺跡を通り抜け、モンティという地区がある。
モンティとは、”小高い丘の上にある街”という意味で、古代ローマでは、湿地地帯だったところにある丘の上に街を築いた、そのままの名称。
その昔ここは貧民街だったが、今は庶民の街、しかもアーティストやおしゃれ系の人たちに人気なのだとか。
以前より住む人にとっては、需要と供給の関係で家賃が値上がり、少し迷惑そう。
どの路地も石畳が引き詰められ、壁はネイプルスイエローやジョンブリヤンなどの落ち着いて明るめの黄色からオレンジ色にかけての色で塗り分けられている。
そこに、観葉植物を飾ったり、壁にツタを這わせたりして、不足している緑を補う工夫をする。
とある肉屋の壁は、ぐるりとツタに被われ、見事だった。
店主の説明では、彼の父親がもらったアマゾン土産のツタを植えたのがきっかけだという。
モンティ地区で見かけるツタの大本は、この肉屋が元祖ということだ。
ある絵描きの家の前にも、まだ若いツタが植えられていた。
”げんかつぎ”として植えたらしい。
彼いわく、「ツタの石壁に諦めずその身を這わせていく姿が、諦めないで続けて行けばいつかきっと夢が叶う」と思うからだとか。

石畳といえば、その歴史は古く、大々的なものとして、紀元前320年にできたアッピア街道が有名。
イタリア半島の南にあるブリンディジまで続く、軍隊などを効率よく移動させる為に70センチあまりの大きな石を中央盛高にして水はけをよくした、世界初の舗装道路。
その道には、1.5キロメートルを1マイルとしたマイルストーンが、設置されている。
土木はローマにありといわれるのも、大きくうなずけるのであった。

ローマには、猫コロニーが、市内4箇所の遺跡を使って設けられている。
かつて、猫はローマの守り神として珍重されていた。
それが今では、野良猫として街を徘徊している。
そこで、「猫はローマ市民と同等の権利を持つ」という条例を制定し、野良猫の保護地区を作り、ボランティアたちが面倒を見ているのだ。
それから、”猫カード”があり、持っているとエサが10パーセント割引になる得点付き。
おそらく、昔、ネズミが媒介する疫病ペストの防止として、猫を飼うことが奨励されたのだ。
衛生的になった現代では、猫の役割はなくなったのかもしれないが、猫にしてみれば人の都合に翻弄されるのは、大きな迷惑だ。
猫コロニー、人間の恩返しといったところだろう。

今回のモンティ地区は、25年前のローマの面影を残していたように思う。
懐かしく、今すぐに飛んで行きたくなった。
ローマは永遠の都にして憧れなのか。
ナボーナ広場近くのピッツェリア、まだあるかしら。
どうか、ローマよ、その姿をいつまでも留めておいておくれ。