昭和19年の私の日記と、文集「飛行機工場の少女たち」の写真です。
飛行機工場での思い出が頭の中から消えない私は
72年前の古びた日記帳を出して何十年振りに読んでみました。
忘れていたことが細かに鮮明に書かれ、日記は先生が毎週点検して
印が押されて書き添えもありました。
工場の入所式は7月29日で、翌日から飛行機や工場の見学
飛行機を作る作業の基礎の実習です。
机に据えられた万力に金属を挟み、ピーピーという笛に合わせてハンマーを振り上げ
鋲打ちをします。やすりをかけたりドリルで穴をあけたりしました。
8月10日に職場の配属が発表され私は倉庫での準備係です。
主に棒管材の仕事をしましたが、注文を受けた直径のサイズの鉄棒やジュラルミンの管など
を高い梯子の上のほうまで上がり、棒管材を引き出し、持って梯子を下りるのが
とても怖くて足が震えました。
注文書の規格に合わせて、グラインダーでその長さに切り、送り札を付けます。
グラインダーの刃で金属を切ると火花が出て、その音と金属臭はひどいものです。
果てしなく広い飛行場内にはいくつもの工場があり、工場からの量の多い注文は、
鋼材を倉庫に取りに行き、リヤカーに積んでかなりの距離を運びます。
3人位で重いリヤカーを一人が引き、他は後押しをして交代しますが
女の子にはとても重労働です。日記には体と足が疲れたと毎日のよう仁書いてありました。
届けた鋼棒は鋲やネジにも加工されると知りました。
11月になると空襲が激しくなり、空襲警報が出ると仕事を止めて防空壕に入ります。
もしもの事を思い、皆で海ゆかばを歌いました。
夜は警報が出るので寝られない毎日です。
11月29日の夜の空襲で庭の防空壕に入り高射砲のけたたましい音を聞きましたが
警報が解除されて外に出ると東京の空が赤く見えました。
神田、日本橋、大森が空襲でやられたのでした。
吉祥寺は何もなく終戦となり幸運だったと思いました。
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