タキさんの押しつけ映画評・115
『キリスト教映画のバックグラウンド』
この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ
これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画論ですが、もったいないので転載したものです。
昨年末から、やたらとハリウッドでキリスト教の映画が作られてるってのは、たびたび指摘してきましたが、どんな社会的要請があってそうなっているのか? 各作品の後ろには、どんな意図を持った製作者がいるのか? よくわかりませんでした。
先月のスクリーンに面白いコラム(西森マリー/アメリカ文化 常識&非常識)が載っとりましたので、それにそって考えてみたいと思います。
アメリカは、建国の基盤を担ったのが、カトリックの迫害を逃れた改革派のクリスチャン(新教徒)であったから……と言うより、そもそも新大陸はキリスト教のための新発見であると認識されており、ヨーロッパの白人にとってはメイフラワー号(1620年)の到着のずっと前から「キリスト教の大地」と考えられていました。いまだに、「進化論」を教えただけで逮捕される州があるのですが、1930年代までアメリカ全土で、聖書は公立学校の副読本であり、科学の授業で「天地創造」を教えていました。
映画の黎明期には数多のキリスト教映画が作られ、黄金時代を迎えたハリウッドでは50年~60年代前半にキリスト教大作映画が次々に製作(「ソロモンとシバの女王」~「偉大な生涯の物語」)されました。その後、ベトナムの泥沼化と共に広がったカウンターカルチャーに呑み込まれ、アメリカ(特に「都会」)から宗教色が薄れて行き始め、映画からもキリスト教色は消えて行きました。
果ては88年「最後の誘惑」のように、キリストを全くの俗人として描いた作品まで現れます。
この潮流にストップをかけたのが、92年のクリントン政権でした。 あまりにリベラルなクリントンへの反動で、それまでサイレントマジョリティとされてきた「非都会」に住むクリスチャンが勢力を持ち始めました。
01年の同時多発テロ後、アメリカは一気に保守化、ブッシュ大統領の影響(彼自身 再生派クリスチャンで、保守的キリスト教勢力がバックグラウンド)もあって、「福音主義者」の発言力が極端に強くなった。[福音主義者(エウ゛ァンジェリスト/キリスト教原理主義者の母体)]
こうした背景の元、03年 メル・ギブソンが「パッション」を発表。88年の「最後の誘惑」と同じく、キリストの最期を描いた作品ながら、全編、アラム語・ラテン語・ヘブライ語の映画で、英語字幕が付けられた。
アメリカでは、外国語映画はほぼヒットしないのに、これは4億$に迫るヒットで「神の奇蹟」とまで言われた。
とは言え、極端に宗教色の強い作品は、好いところ年間1~2本に過ぎず、昨年末からの宗教作品ラッシュには説明がつかない。これにも政治のベクトルが深く絡んでいます。現職オバマが就任後、「都会派アメリカ人」は、宗教色が薄まったどころか、異常なほどの「アンチ・キリスト」となり、未だに勢力を保持する「非都会派アメリカ人」との間に溝を深めてしまう事となった。
最近作品「ノア~約束の舟」は、非常に物議をかもしたが、これは、「都会派」の作った映画に「非都会派」が“NO”を突きつけているのです。
主な批判は、ノア達が菜食主義者で、カインの末裔である王が「人間が動植物の支配者だ」(聖書では神の言葉)と言い放つ台詞にあるようです。 聖書の物語を借りた「環境保護推奨映画」じゃねえか!……って訳です。この点は、私も同じようにかんじました。
「トランセンデンス」にも同じ臭いがしていました。 環境保護原理は、あらがいがたい真理を含むため、ほんまに始末が悪い。まだ、日本公開になっていないキリスト教映画は多数あります。その全てが、いわゆる「都会派」の作った物なのか否かはわかりませんが……どないなんですかねぇ。
年末に「十戒」のリメイクが公開されますが、これがここで言う「都会派」の作品だとしたら……どんな風にいがめるんでしょうか。
よく、日本人は節操なく右左に振れると言われますが、こんな風に見てくるとヤンキーにだきゃ言われたないわい! と、思うのでありますよ、ホンマ、腹の底からであります。
「環境保護」は、アメリカにおける新しい宗教になっています。その意味「神の言葉(福音)を勝手に解釈するな」と、一言一句 聖書の文面の通りに従おうとする原理主義者と変わるものではありません。宗教哲理に重きを置かない大多数の日本人の目からすれば、理解しがたい人々なのであります。
『キリスト教映画のバックグラウンド』
この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ
これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画論ですが、もったいないので転載したものです。
昨年末から、やたらとハリウッドでキリスト教の映画が作られてるってのは、たびたび指摘してきましたが、どんな社会的要請があってそうなっているのか? 各作品の後ろには、どんな意図を持った製作者がいるのか? よくわかりませんでした。
先月のスクリーンに面白いコラム(西森マリー/アメリカ文化 常識&非常識)が載っとりましたので、それにそって考えてみたいと思います。
アメリカは、建国の基盤を担ったのが、カトリックの迫害を逃れた改革派のクリスチャン(新教徒)であったから……と言うより、そもそも新大陸はキリスト教のための新発見であると認識されており、ヨーロッパの白人にとってはメイフラワー号(1620年)の到着のずっと前から「キリスト教の大地」と考えられていました。いまだに、「進化論」を教えただけで逮捕される州があるのですが、1930年代までアメリカ全土で、聖書は公立学校の副読本であり、科学の授業で「天地創造」を教えていました。
映画の黎明期には数多のキリスト教映画が作られ、黄金時代を迎えたハリウッドでは50年~60年代前半にキリスト教大作映画が次々に製作(「ソロモンとシバの女王」~「偉大な生涯の物語」)されました。その後、ベトナムの泥沼化と共に広がったカウンターカルチャーに呑み込まれ、アメリカ(特に「都会」)から宗教色が薄れて行き始め、映画からもキリスト教色は消えて行きました。
果ては88年「最後の誘惑」のように、キリストを全くの俗人として描いた作品まで現れます。
この潮流にストップをかけたのが、92年のクリントン政権でした。 あまりにリベラルなクリントンへの反動で、それまでサイレントマジョリティとされてきた「非都会」に住むクリスチャンが勢力を持ち始めました。
01年の同時多発テロ後、アメリカは一気に保守化、ブッシュ大統領の影響(彼自身 再生派クリスチャンで、保守的キリスト教勢力がバックグラウンド)もあって、「福音主義者」の発言力が極端に強くなった。[福音主義者(エウ゛ァンジェリスト/キリスト教原理主義者の母体)]
こうした背景の元、03年 メル・ギブソンが「パッション」を発表。88年の「最後の誘惑」と同じく、キリストの最期を描いた作品ながら、全編、アラム語・ラテン語・ヘブライ語の映画で、英語字幕が付けられた。
アメリカでは、外国語映画はほぼヒットしないのに、これは4億$に迫るヒットで「神の奇蹟」とまで言われた。
とは言え、極端に宗教色の強い作品は、好いところ年間1~2本に過ぎず、昨年末からの宗教作品ラッシュには説明がつかない。これにも政治のベクトルが深く絡んでいます。現職オバマが就任後、「都会派アメリカ人」は、宗教色が薄まったどころか、異常なほどの「アンチ・キリスト」となり、未だに勢力を保持する「非都会派アメリカ人」との間に溝を深めてしまう事となった。
最近作品「ノア~約束の舟」は、非常に物議をかもしたが、これは、「都会派」の作った映画に「非都会派」が“NO”を突きつけているのです。
主な批判は、ノア達が菜食主義者で、カインの末裔である王が「人間が動植物の支配者だ」(聖書では神の言葉)と言い放つ台詞にあるようです。 聖書の物語を借りた「環境保護推奨映画」じゃねえか!……って訳です。この点は、私も同じようにかんじました。
「トランセンデンス」にも同じ臭いがしていました。 環境保護原理は、あらがいがたい真理を含むため、ほんまに始末が悪い。まだ、日本公開になっていないキリスト教映画は多数あります。その全てが、いわゆる「都会派」の作った物なのか否かはわかりませんが……どないなんですかねぇ。
年末に「十戒」のリメイクが公開されますが、これがここで言う「都会派」の作品だとしたら……どんな風にいがめるんでしょうか。
よく、日本人は節操なく右左に振れると言われますが、こんな風に見てくるとヤンキーにだきゃ言われたないわい! と、思うのでありますよ、ホンマ、腹の底からであります。
「環境保護」は、アメリカにおける新しい宗教になっています。その意味「神の言葉(福音)を勝手に解釈するな」と、一言一句 聖書の文面の通りに従おうとする原理主義者と変わるものではありません。宗教哲理に重きを置かない大多数の日本人の目からすれば、理解しがたい人々なのであります。