大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

らいと古典 わたしの徒然草・4『女は髪のめでたからんこそ』

2021-02-12 06:09:50 | 自己紹介

わたしの     

のめでたからんこそ    



 泣いているのか~ 笑っているのか~ 後ろ姿の~ というシャンプーのコマーシャルソングを覚えておいでの読者は、おおむね五十代以上の人でしょう。

 年末に、大原麗子がマドンナ役の『男はつらいよ』を観ました。山田洋次監督の演出の腕も確かで、役者の呼吸も絶妙で。確実な昭和の世界がそこにはありました。

 昭和がなぜに、かくもいとおしいのか……。

「おっさん、そら、歳やでぇ~」 
 ごもっとも。アラ還の身としては返す言葉もありません。

 しかし、この昭和への憧憬には、兼好法師の「女の髪のめでたからんこそ」が潜んでいるように思います。

 昭和の御代は、その最末期をのぞいて、女性の髪は自然でありました。ゆでかけのインスタントラーメンのごときソバージュのパーマもなければ、パッ金や枯れ葉色の茶パツなどもありませんでした。ほとんどが天然の黒髪。パーマもごくひかえめで、個人々々の自然らしさをそこなうものは少なかったように思います。もちろん水泳部などで髪がやけたり、もともと褐色じみた髪の女性もいましたが、それはそれで自然のよさがあって、すれちがった女性の髪の残り香に思わずホワ~っとした、若い日の記憶をもっておられるオジサマも多いのではないでしょうか。

 イスラムでは、女性は人前で女性らしさをひけらかしてはいけないことになっています。きびしい地域ではブルカといって、女性は全身を隠す衣装を着ています。ゆるい地域でも。女性は人前で髪をさらすべきではないと、スカーフをつけていますね。事ほどさように、髪は女性の「女性らしさ」のシンボルでありました。
 わたしが、現職であったころ、入学時はすなおな地毛であった女子が五月の連休明けのころから、髪をいじりだします。軽い茶パツになる者から、キンキンのパッ金にメッシュまで。座り方まで、まっすぐな前向きから、足を組んだ斜め座り、中にはミニスカートのまま、イスの上で大あぐらをかくやつまでいます。
「なんで、そんなんすんねん?」
 と聞いてみた。
「わし(本人は、わたし、と言っているつもり。ほかにも、あし、うち、という一人称もある)のかってやろ」
と、いうこたえが返ってくると思いきや……。
「みんなやってんねんもん」
 と、いう応えが多い。これは女性、とくにハイティーン女子の平均的感覚が「わたしは清楚な女の子です♪」から、「わしは、みんなキライやねん。ウザイよってこっちよってくんなよなあ!」に変わってきたシルシではないかと思うのですが、どうでしょう? 
 グラビアモデルの女の子の表情も、昭和の御代ではにっこり微笑んでいるものが多数派でしたが、新世紀の現在は「わし、おもんないねん」風のブッチョウヅラ。女性は昔にくらべて解放されてきたし、解放されるべきであると思います。しかし、解放してどこへ行くのか。どんな女性像をお持ちなのか、オッサンにはよく分かりません。
 
 とにかく、昔のように、思わず振り返りたくなるような女性より、むこうから来た時点で「目ぇ合わさんとこ」という女性が増えてきたように感じられます。そう言えば、アメリカでは理由もなく女性を十秒以上見つめたらセクハラというのがあったように思います。

 兼好法師は、こうも言っています。

「女の髪を撚って作った綱は象さんをもつなげ。女の履いた足駄(鼻緒のある履き物)で作った笛を吹くと雄鹿がよってくる」 
 兼好のおっさんも、若いころには、かなり女性に悩み苦しんだのでしょう。「嗚呼、ご同輩!」であります。
 
「萌え」というがあります。
「萌え」とは、ヤ行下二段活用の動詞である「萌える」の連用形……などと古典の授業的なお話ではありません。
 古くは「おにゃんこクラブ」にはじまり、アキバ系のコスプレ、メイド喫茶、AKB48にいたる東系文化……これでもちょいムズイ。『セーラームーン』『カードキャプターさくら』から始まる、現実ばなれした、超カワユイキャラに対する熱烈な男の子たちの、なかばバーチャルな女の子へのアコガレの文化現象。
 これについては、いずれ章を改めて考えてみたいと思います。
 
 保母さんのことを「保育士」 婦警さんのことを「女性警官」 看護婦さんのことを「看護師」といいます。しかし現場では、多くの場合「保母さん」「婦警さん」「看護婦さん」で通っていのではないでしょうか。
 それに気づかれたでしょうか「保育士」と「看護師」では「し」の字が違います。聞くところによると「士」という字は「男」を指すので、「看護し」の場合は「師」を使うらしいです。「婦」という字はツクリが箒(ほうき)を表していて、いけないのだそうです。しかし「主婦」「家政婦の三田」の「家政婦」という言葉は現役です。厳密には竹カンムリの無い方は、古代において神殿や廟を清める時に使う特別なもので、転じて、それを使う神聖な女官を表したもので、卑し気な意味は無いのだそうですが、世間一般の認識は違いますので、深堀りは控えます。

 このように女性の、兼好法師の時代の言葉でいうと「あらまほしき女のすがた」が見えてきません。こう申しあげると「女性に画一的な印象を押しつけるな!」と、いわれそうです。

 女性にかかわらず、この国から、いろんな面で「あらまほしきすがた」が消えて久しいように思います。

 現役のころ、なにかにつけて「教師は労働者」あるいは「教育職の公務員」であるといわれました。両方とも、重要な何かが抜け落ちているように感じます。一番しっくりきたのは、子供たちが言う「センセ(大阪弁では先生の、末尾の、イの音がハサミでちょんぎったようになくなる)」でありました。前回でてきたヤクルトネエチャンなどは、その代表選手であり、こういうイケイケネエチャンがいるかぎり、まだまだ救いはあると思うのです。

 兼好法師ののたまうように「~のめでたからんこそ」と言える時代がくればと渇望するのでありますが、やっぱ、アラ還のタワゴトであろうかしらん……。


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