大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校ライトノベル・ライトノベルベスト〔エピソード・赤鼻のトナカイ・1〕

2016-12-09 18:12:32 | ライトノベルベスト
ライトノベルベスト
〔エピソード・鼻のトナカイ・1〕
     


 サンタクロースがIT化してから久しくなった。

 大昔のサンタクロースは、何万人も居て、半年がかりでプレゼントを用意し、主にキリスト教国の中産階級以上の家を個別に回っていた。それが日本などクリスチャンでもないのにクリスマスプレゼントを贈る習慣が世界中に広まり、主にドアーフの隠居仕事であったサンタクロースの仕事も大変になった。

 それが前世紀の終わりごろからIT化が進んだ。

 コンピューターで、世界中の子供たちの希望と家庭の実態、そういうことをデータ化し、親や、それに準ずるボランティアの人たちに「その気」にさせる。
 スーパーコンピューターを導入してからは、いっそう楽になった。担当の若いサンタがバグのチェックやメンテナンスをするだけで仕事が済む。

 前世紀の終わりごろまでは、ごく一部のアナログサンタが、伝統通りのコスでトナカイに橇をひかせて個別に回って行った。煙突がなくても、家に入る時はミクロンの大きさにまで小さくなり、プレゼントを置いていくのだ。
 そういうサンタは、めっきり減った。もう世界に五人もいない。ちなみにサンタクロースには固有の名前は無い。シリアルナンバーで呼んでいる。

 これは、そういうアナログサンタ、シリアルナンバー00……1号の、ちょっとしたエピソードである。

「高倉健も菅原文太も逝っちまった……わしも今年を最後にしようか」
 暖炉の前でロッキングチェアーに揺られながら一号サンタは思った。一号サンタも時代に合わせてパソコンを使っている。若いサンタでは手に余る……実態はオールドサンタたちに生き甲斐を与えるために、若いサンタたちが、特別枠にした特別なところである。
 昨日パソコンを立ち上げて、そういう特別枠が入っているのではないかとメールをチェックした。
 なんと、迷惑メールの中に「サンタクロース一号さんへ」というのが入っていた。

「なんだ、バグか設定ミスかな……」

 そう呟きながら開いてみると、大手ネットショップ『ジャングル』からのクリスマスプレゼントの特別バーゲンのお知らせだった。
「世も末だな。本職サンタのところに、こんなメールが来るようじゃなあ……」
 どうやら、サンタ一号というのがハンドルネームと勘違いされ、シリアルナンバーをアドレスと間違われたようである。

 で、サンタは、今年をもって、最後にしようと決心した。

「そうだ、最後のクリスマスだ。橇はあいつに曳かせよう!」
 サンタは、そう思い浮かぶと、さっそく地味なオーバーを着て、何十年かぶりで、そいつの家に向かった。

 サンタは、テレポすると、そいつ……赤鼻のトナカイのバイト先に急いだ。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・118『るろうに剣心~京都大火編』

2016-12-09 06:35:11 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・118
『るろうに剣心~京都大火編』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので転載したものです。


タケルンとエミチャンファンの皆様、お待たせ!必見であります。

 だから「るろ剣」ファンは、以下 読まないでええよ~~〓
 正確には完結編を見た上で最終評価します。取り敢えず今作の感想。
 長いよ~、2時間20分? マァジですかい、ほんで9月に続きがあります。 正直、原作を知らない者には辛い2時間強です。
 私、結局 アニメビデオを見ただけで原作未読。 そんな私でも、剣心/佐藤健、薫/武井 この二人がドンピッタリなのは判ります。

 今作志々雄役の藤原竜也が名演です。志々雄の狂気と悲しみ(今作に“悲しみ”は関係ないけど、次回完結編には出てくる…筈。原作読んでなくても、それくらいは知っている)が、目の表情から現れている。 やっぱ、巧い役者は余裕があります。逆にダメなのが、志々雄の部下の一人 沢下条と、家族を志々雄の一党に殺されたガキ。
 沢下条役、よう喋らんのなら「大阪弁」使わないで頂きたい。耳障りなだけ。 ガキ役、最近の子役は巧い子ばっかりなのに、この下手さ加減は一体何?
 ついでに言うと、エキストラを5000人使ったらしいが、ちゃんと演技指導してません。ほとんど衣装を着けてウロウロしているだけです。
 これを書くと、まぁた剃刀の刃が届きそうですが、原作の世界観が元々ムチャクチャ(漫画には説得力が在るんだと思いますが)なのに、それを実写映画としてリアルに見せる工夫が無い。
 瀬田役/神木隆之介も、現代の中学生が着物を着てチャラチャラしているようにしか見えない。神木隆之介は巧い役者なので、これは偏に監督の責任、それとも堤幸彦の作品に出過ぎて壊れたのかな? 大体が大嘘の明治初期が舞台。大嘘を本当に見せるには、舞台がグルッと回って虚構が真実に見えるまで大嘘を積み重ねる事。それが、何の説明の無いままに小嘘を並べてある。原作を知っていれば、総て「前提」なんだけど、原作を知らない身には小嘘が出る度に一々納得しなければ先に進めない。

 前作ではアクションがまるで「香港カンフー」だったが、今作は多少マシ。但し、これは原作の曖昧さなのか、映画監督(アクション監督)の無知なのかは判らないが、暗殺剣と技巧的剣術と戦場の剣の区別がついていない。剣心の剣法は明らかに多数を相手の戦場の剣、細かいようだが、これの区別がついていないとリアリティがすり抜けていく。
 同様に、薫が木刀で素振りしているシーン。ヨレヨレの振りだし、切っ先が震えている。芝居じゃあるまいし映画なんだから、いくらでも細工できるのに、なんでそのまんまなん? そういや剣心も、振り抜かずになぜているように見える所がある。アクション監督 何してた?
 とにかく、細かいお約束が多すぎて、そのまんま受け入れるのがしんどい。 何度も言うが、実写にはアニメとは違う作法があります。それを守らずに漫画をそのまま映像にしてもリアリティは生まれない。 せっかくスケールのある話と迫力シーンの連続なのに、小嘘で繋ぐと、そいつに引っかかって楽しめない。
 来月までに原作を、せめて京都編だけでも読もうと思いますが……あの絵柄があきまへん。結局、読まんやろなぁ。

 誰か、持ってたら貸しておくんなさい。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・117『ゴジラ』

2016-12-08 06:23:52 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・117
『ゴジラ』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、おったいないので転載したものです。



楽しめる映像ではあります。ただし、色んな物を諦めるか無視すれば……と、条件付き。

 画像の作りは良く出来ているのですが、残念ながら説得力に欠ける、そのままリアリズムと書いても良い。要するに“全く怖く無い”のです。困ったもんでおます。
 まず、音がいかん。ここは効果音やろ~と思う所に“音楽”が入ってます。マァジですかいのう。音楽にした所が、作曲家は伊福部さんのオリジナルを聞き込んで、オマージュを捧げたと言うておりましたが……どこが? 私、音楽素養全く0で、もっぱら聴くのみです。私には判らん何かがあるんかもしれませんが、聴いてる限りにおいて「どこがオマージュ?」です。オマージュなどと考えなければ、スリルを盛り上げる作品だと思えますが、いかんせん、使う場所を間違えています。
 54年のオリジナルにインスパイアされ、リスペクトしているのは、そこいら中に認められます。ゴジラの背鰭が青白く光り(チェレンコフ光っちゅうんですわ)口から放射能炎を吐くのか? これは予告を見る限りでは判らない、ここ大注目ポイント! 監督のエドワード・ギャレは“モンスターズ:地球外生命体”っちゅう映画をたった50万$で作ったお兄ちゃんで、メジャー作品は初めて。そのせいか、怪獣のCG以外はなんか貧乏臭い、まるで日本映画のチープさにオマージュを捧げたように見える。
 それと、これは本の問題であるが、人間のエピソードが設定ミス。そんな作戦は有り得ない、????な設定。
 言ってみりゃ怪獣を人間としたら、まるで蟻の抵抗。ある一家を中心に据えて、描き込んではあるが、感情移入する所まで行かない。所詮 蟻の抗いだから人の痛みや恐怖が浮かび上がってこない。だから少しも怖くない。オリジナル第一作は怖かったっすもんね。 人間の地球に対する傲慢、対するゴジラは自然の代理であり、戦争の記憶が生々しさを持っていた54年に東京に上陸したゴジラの破壊は東京無差別爆撃の再現でした。オリジナル・ゴジラは日本人に刷り込まれた恐怖をそのまま映像にしてありました。
 本作で東京大空襲に当たるのは、福島の原発事故ですが、なにやら及び腰。 全てがこの調子なので、バランスが悪過ぎる。 映像は良し、ゴジラが「おっ!!」と思うような身体能力を見せるし、見所は満載……なのに、設定にご都合主義の小嘘がチョコチョコ顔を出すので入り込めない。大嘘はええんですが、中途半端な小嘘はあきまへん。渡辺謙も、これじゃどないもなりません。

 ホンマに惜しい映画であります。それなりに楽しんで見ましたが、もって恐がらしてもらいたかった。救いは、変な“環境主義的説教臭”がなかった事(在るにはあるんですが、あんまり声高ではない)ですかね、これで“環境原理主義”が顔を見せたら全否定でありますわい。ホンマに惜しい(涙)

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・116『思い出のマーニー』

2016-12-07 06:08:56 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・116
『思い出のマーニー』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ



 これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので転載したものです。


久し振りのジブリアニメは、いつも通りの美しい自然を背景に、ちょっと不思議な、そして、切ないまでに優しいお話でした。

 原作は、1967年のイギリスの児童文学ですが、舞台を北海道に変えて作られています。 幼い時に、両親を同時に亡くし、引き取ってくれた一番近しい親戚とも死に別れ、多少 遠縁に育てられている杏奈。愛情一杯に育てられているが、ある行き違いから、愛情を信じられなくなる。そんな自分の事も大嫌い、周囲にも溶け込めない。 いつも殻の中に閉じこもり、無理にドアを開けようとする者には牙を剥く。  彼女は喘息で、中学校の夏休みに田舎の親戚の家に療養にやってくる。その海辺の町で、杏奈は不思議な少女マーニーと出合う……。

 人は誰しも子供ながらに深く傷ついて、遣り場の無い怒りと悲しみに身動きがとれなくなる経験をするものだと思います。
 大概は新しい経験や、他者との関わりの中で癒やされ忘れ去って行くのだと思いますが、中には生涯忘れ得ない傷として残る経験もあるかもしれません。
 主人公 杏奈もそうなってしまったかも知れない、彼女はまさに崖っぷちに立っている。湾の奥に建っている洋館の少女マーニーも、金持ちのお嬢様ではあるが、愛情に飢えた存在だった。 孤独な魂が呼び合うようにして、二人は出会う。ひと夏の出会いが、この傷ついた二つの魂を癒やして行くさまを情感たっぷりに描いてあります。

 これを見て、古い映画を思い出しました。

“わが青春のマリアンヌ”1955年 仏/西独合作 監督:ジュリアン・デュビビエ <マリアンヌ>にマリアンヌ・ホルト…そらもう、人に在らざると思う程 美しい女性(に見えました……ガキの目にはね)でありました。一目で彼女に恋する少年ヴィンセントにホルスト・ブーフホルツ(“荒野の七人”で一番若いガンマン役) 殆どディテールしか覚えていませんが……ヨーロッパの山中、三つの国が国境を接する所(これはウ゛ィンセントがマリアンヌを追いかけて行く先だったかな?)に寄宿学校がある。そこに、親に見捨てられたらウ゛ィンセントが転校して来る。彼はアルゼンチンからやってきたので、ウ゛ィンセントとは呼ばれず「アルゼンチーナ」と呼ばれる。湖の対岸に「幽霊城」と呼ばれる無人の古城が有った。ある日、ウ゛ィンセントは肝試しに連れ出されて古城に向かう。
 無人の筈の城には、見るからに恐ろしげな大男の管理者がおり、ウ゛ィンセント以外の生徒は逃げ出す。一人城に入ったウ゛ィンセントは美しい女性の肖像画を見つける。すると、その肖像画から抜け出すようにして美少女が現れる……この女性、現実なのか幻なのか最後まで解らない。現実の存在だとしても、その正体も事情も全く解らない。マリアンヌは幻のように消え(連れ去られた?)湖畔をさまようウ゛ィンセントが発見される。
 ウ゛ィンセントはマリアンヌの実在を信じ、彼女を求めて学校から旅立つ。もう、ロマンと幻想に彩られた青春映画であります。今見たら突っ込み所満載?……いや、デュビビエの耽美映像は決して古びませんから、50年前(観たのは8~9歳頃)と同じように引き込まれるかもしれません。“マリアンヌ”は、少年から大人へと旅立つ男の子の話で、本作は、少女の傷ついた魂の救済の話。設定は全く違いますが、どこか同じ匂いがします。 いずれも自分の子供時代・青春時代を思い出して(“マリアンヌ”初見はジャリの時でしたから単に物語世界に憧れてました。)切ない胸苦しい想いに捕らわれます。 少々ホラーテイストを含んではいますが「怖い」とか「ゾッとする」とかは全くありませんのでご安心下さい。本作の重要なテーマは“許し”です。“許す”というセリフに注目して見て下さい。

 さて、長編アニメからは引退した宮崎駿さんでありますが、御大も原作のファンであるらしく、実にたびたびスタジオに現れ、ある時はさりげなく絵コンテを持ち込んだり、自分の設定を喋ったりしたそうであります。たまりかねたスタッフは「宮崎駿の話を聞く会」アハハハハ〓 なんてのを開いて、存分に語ってもらったそうです。結局、殆ど無視(宮崎駿設定では舞台は「瀬戸内」とか言うてはったらしい)されたようで……。
こうなったら無視した若手に一撃を加えるべく、宮崎駿は現場復帰する以外にありません!!
 復帰するなら、原作物のアレンジではなく、堂々たるオリジナルストーリーのSF/ファンタジーで勝負! 待っとります〓

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・115『キリスト教映画のバックグラウンド』

2016-12-06 05:51:21 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・115
『キリスト教映画のバックグラウンド』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ



 これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画論ですが、もったいないので転載したものです。

昨年末から、やたらとハリウッドでキリスト教の映画が作られてるってのは、たびたび指摘してきましたが、どんな社会的要請があってそうなっているのか? 各作品の後ろには、どんな意図を持った製作者がいるのか? よくわかりませんでした。

 先月のスクリーンに面白いコラム(西森マリー/アメリカ文化 常識&非常識)が載っとりましたので、それにそって考えてみたいと思います。
 アメリカは、建国の基盤を担ったのが、カトリックの迫害を逃れた改革派のクリスチャン(新教徒)であったから……と言うより、そもそも新大陸はキリスト教のための新発見であると認識されており、ヨーロッパの白人にとってはメイフラワー号(1620年)の到着のずっと前から「キリスト教の大地」と考えられていました。いまだに、「進化論」を教えただけで逮捕される州があるのですが、1930年代までアメリカ全土で、聖書は公立学校の副読本であり、科学の授業で「天地創造」を教えていました。
 映画の黎明期には数多のキリスト教映画が作られ、黄金時代を迎えたハリウッドでは50年~60年代前半にキリスト教大作映画が次々に製作(「ソロモンとシバの女王」~「偉大な生涯の物語」)されました。その後、ベトナムの泥沼化と共に広がったカウンターカルチャーに呑み込まれ、アメリカ(特に「都会」)から宗教色が薄れて行き始め、映画からもキリスト教色は消えて行きました。
 果ては88年「最後の誘惑」のように、キリストを全くの俗人として描いた作品まで現れます。

 この潮流にストップをかけたのが、92年のクリントン政権でした。 あまりにリベラルなクリントンへの反動で、それまでサイレントマジョリティとされてきた「非都会」に住むクリスチャンが勢力を持ち始めました。
 01年の同時多発テロ後、アメリカは一気に保守化、ブッシュ大統領の影響(彼自身 再生派クリスチャンで、保守的キリスト教勢力がバックグラウンド)もあって、「福音主義者」の発言力が極端に強くなった。[福音主義者(エウ゛ァンジェリスト/キリスト教原理主義者の母体)]
 こうした背景の元、03年 メル・ギブソンが「パッション」を発表。88年の「最後の誘惑」と同じく、キリストの最期を描いた作品ながら、全編、アラム語・ラテン語・ヘブライ語の映画で、英語字幕が付けられた。
 アメリカでは、外国語映画はほぼヒットしないのに、これは4億$に迫るヒットで「神の奇蹟」とまで言われた。
 とは言え、極端に宗教色の強い作品は、好いところ年間1~2本に過ぎず、昨年末からの宗教作品ラッシュには説明がつかない。これにも政治のベクトルが深く絡んでいます。現職オバマが就任後、「都会派アメリカ人」は、宗教色が薄まったどころか、異常なほどの「アンチ・キリスト」となり、未だに勢力を保持する「非都会派アメリカ人」との間に溝を深めてしまう事となった。

 最近作品「ノア~約束の舟」は、非常に物議をかもしたが、これは、「都会派」の作った映画に「非都会派」が“NO”を突きつけているのです。
 主な批判は、ノア達が菜食主義者で、カインの末裔である王が「人間が動植物の支配者だ」(聖書では神の言葉)と言い放つ台詞にあるようです。 聖書の物語を借りた「環境保護推奨映画」じゃねえか!……って訳です。この点は、私も同じようにかんじました。
「トランセンデンス」にも同じ臭いがしていました。 環境保護原理は、あらがいがたい真理を含むため、ほんまに始末が悪い。まだ、日本公開になっていないキリスト教映画は多数あります。その全てが、いわゆる「都会派」の作った物なのか否かはわかりませんが……どないなんですかねぇ。
 年末に「十戒」のリメイクが公開されますが、これがここで言う「都会派」の作品だとしたら……どんな風にいがめるんでしょうか。
 よく、日本人は節操なく右左に振れると言われますが、こんな風に見てくるとヤンキーにだきゃ言われたないわい! と、思うのでありますよ、ホンマ、腹の底からであります。
「環境保護」は、アメリカにおける新しい宗教になっています。その意味「神の言葉(福音)を勝手に解釈するな」と、一言一句 聖書の文面の通りに従おうとする原理主義者と変わるものではありません。宗教哲理に重きを置かない大多数の日本人の目からすれば、理解しがたい人々なのであります。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・114『マレフィセント』

2016-12-05 06:40:30 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・114
『マレフィセント』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので転載したものです。


ディズニーの1959年のクラシックアニメ“眠れる森の美女”の真実を明かす……と来れば、またまた相対化ですかいな〓〓 物事には裏も表もありまっせ、右から見るのと左からでは全く違う話が見えて来るって訳ですが、本作はそうではありません。

 これが真実なら、59年のアニメは、いわば「古事記」か「日本書紀」つまり、オーロラ姫の子孫が歴史を記す時、人間にとって都合の悪い事実を全面的に書き換えたって形です。
 以下、今回はネタを割りますから、見に行く予定の人は読まないで下さいませ。 さて、本作の原型はシャルル・ペローの「眠れる森の美女(1697)」と、グリムの「いばら姫(1812)」です。いずれもイタリアの説話集「ペンタローネ(1636)」に端を発していますが、今や、これしかないマレフィセントのイメージは全くディズニーのオリジナルです。 そして、ストーリーは、チャイコフスキーの書いたバレーにインスパイアされている。

 バレー版に登場する妖精は7人で、マレフィセント(バレー版ではカラボス)も含まれる姉妹です(ちなみに民話には12人)。カラボスが呪いをかけると、リラの精が「愛する人のくちづけで目を覚ます」と魔法をかける。本作のマレフィセントは、このカラボスとリラが合体している。彼女自身が呪いをかけた後、「真実の愛のくちづけだけが、この呪いを解く」と続ける。
 この世に“真実の愛”など存在しないと確信しているからであるが、彼女は元々は心優しい妖精で、妖精の国の守護者であった。 それが何故、悪魔のような妖女に成ってしまったのかというのが本作の肝。
 洗礼式の祝宴に招待されなかったのを怒ったというのがこれまでの設定だが、もっと以前に因縁があったことになっています。オーロラの父・ステファン王とマレフィセントの間にロマンスがあって、ステファンの心変わりで手ひどい裏切りに会った。そこから彼女は歪んで
行ったとしてある。
 本作品、アメリカでは5週目、2億$を超えるヒットに成っています。設定も面白く、映像デザインも美しい……のですが、私には入り込みにくい映画でした。
 なんかストーリー運びが中途半端で感情移入出来ない。森に隠れたオーロラを陰ながらマレフィセントが見守っているのだが、その愛憎半ばの視線が表現できていない、ここが最重要ポイントなのに……なんで? オーロラを預かった3人の妖精が全く役立たずで、放っておいたら16歳の誕生日までに死んでいる。 オーロラを育てたのは、マレフィセントだということなのだが、これに3人が全く気づかない。というより3人の妖精が殆ど描かれていない。この中途半端、原因が脚本なのか編集なのか、はたまたアンジェリーナ・ジョリーの演技力不足なのか? 見た感じでは全部に等分の罪がありそうです。姿形は、リック・ベイカーの見事なメイクもあって、アンジー以外に考えられない位、まさしくマレフィセントなのですが、なんせ複雑な性格、ちょっと難しかったのかな?

 アンジーに難が在ったとしたら、そこはサイドが埋めなくてはならないが、どうもアンジーの存在感に任せ過ぎている。マレフィセントの手先のカラスが、魔力で様々に姿を変え、彼女に語りかける。この役をもう少しうまく使えば相当変わった筈。 ストーリーにリアルが欠けるから、見事なセットも衣装も楽しめない。逆に盛り込み過ぎでゴタゴタ感じる。上映97分(実質90分位)、時間的にはまだ余裕がある筈、最終編集がどんな考えで行われたのやら。監督のロバート・ストロンバーグは長年 美術監督として名を馳せた人で、本作が監督デビュー。さすがに美術に対する目配りは行き届いているが、ストーリーテリングに難有りです。オーロラは森でフィリップ王子に出会いますが、果たしてこの程度で“真実の愛”が生まれるのか? というのは、極当たり前な現代的視点、ならオーロラは誰のキスで目覚めるのか…これはもう、書くまでもありませんが、この見え見えの結論を感動的に見せるためには、そこに至るまでの積み上げが肝心なのですが……う~~ん、残念!

 エンディングにしても、ハッピーエンドではありますが、ホンマにこれでええんかい?と思います。登場人物は、現代的な事象をカリカライズされた存在ですが、これを欲張り過ぎているのも混乱の一因であります。さて、これをお薦めするか否か……う~~ん、難しいなぁ。アンジーのマレフィセントぶり(姿)だけでも見る価値はありますが、ちょっと演技がねぇ~。ゴージャスな画面ですが、盛り込み過ぎ?
 総体、デラックスな作品ですから、見て損とか馬鹿にしとんかい!ってな事もありませんし、まぁ……お薦めとしときます。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・113『トランセンデンス/オール・ユー・ニード・イズ・キル』

2016-12-04 06:36:49 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・113
『トランセンデンス/オール・ユー・ニード・イズ・キル』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ



 これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので転載したものです。


さて、「トランセンデンス」であります。

 クリストファー・ノーラン監修(なんで監督じゃないの?)によるSF、ジョニデ主演、モーガン・フリーマン共演。鳴り物入りで公開されたが、全米トップ10から2週で脱落、興行収益2000万$を超えた??程度、早い話がコケとります。さぁて、なんでなんでしょうねぇ。とりあえず見てみましょう。
 おっと、その前に、時間の都合上仕方なく“吹き替え”を見ました。只今、自己嫌悪と共に大後悔、ずっと違和感持ったまま二時間座ってました。しかしまぁ、内容は判りました(当たり前)。本作がなんでコケたのかも、ハッキリ掴めました。
 主犯は脚本です。ストーリーがあまりにも表面的かつ単純かつ一方的なんです。
 最近流行りのキリスト教関連映画風に言うなら“アダムとイブの楽園追放物語”です。死にかけている夫の頭脳をコンピューターにアップロードしようとする妻の名前が“エブリン”……EVEの名前が含まれている。となると、神様は師に当たるモーガン・フリーマン、同僚であり友人でもあるポール・ベタニー(本作の語り部でもある)は、さしずめ「失楽園」著者のミルトンだろう。「フランケンシュタインの怪物」を書いたシェリー夫人でも良い。以上の比定はパンフにも書かれているが、これは簡単に想定できる、ちゅか、それしかない。
 設定があまりにも安易かつご都合主義です。いつものように、ストーリーを開いていく角度に例えると、映画が始まって30度、90度と開いて行くが、丁度180度になった所で物語は終わる。
 えっ? この先は無いの?……思いっきり欲求不満だけが残る。量子コンピューター“ピン”に向かって「お前に自我は在るのか?」と質問し、ピンシステムが応える「難しい質問です……あなたは自分の自我を証明出来ますか?」この質疑は二度繰り返され、二回目はアップロードされたジョニデに向けられる。

ジョニデの答えは「ピン」とまるっきり同じ。ここは重要ポイント!

 まぁ、この点はちょいと置いといて、本作の中で“人間の自我”とは一体何であるのか……一切考察されないし、当然“答”も明示されない。この点をすっ飛ばしていきなりアップロードされたジョニデは元のジョニデではないと短絡されてしまう。単に“人類以上”の存在に対する“恐怖・嫌悪”だけしか映画から読み取れない。
 ジョニデを愛するが故に、彼の頭脳をアップロードする妻にしても、ロード半ばでジョニデは死ぬのに、何の検証も無く作業を進める。ここでの拙速が、後の疑惑に繋がるのだから仕方ないとも言えるが……エデンにおいて人間が知恵の実を口にしてしまうのは、悪魔の誘惑でもあるが、その責任の大半はイブにあるとするのが一般的。本作は、そこから一歩も踏み出していない。
 人間が自我を持つに至った事が果たして“罪”なのか否か……この答が無いのが本作の致命傷です。
 アップロードされたジョニデは次々に新技術を繰り出す。最大の物はナノボット(ナノテクノロジー+ロボット=細菌サイズのロボット)、研究室で作られるのみならず、おそらく地中の硅素を原料として無数に発生し、天候すら左右する。ここまで来てしまえば、アップロードされたジョニデが人類の敵であろうが味方であろうが打つ手はない。銅が電磁波を遮るってんで、対ジョニデのバリヤー代わりに使われるが、そんなものナノボットに侵食させたら一発終わり。新しい量子コンピューターを止める為、地上のソーラーシステムを破壊しようとするが、小口径の大砲一門と迫撃砲が一つだけ? ミサイル(核)は無理としても“マザー・オブ・ボム”の一発で方が付く。軍隊(政府)を即座に動かせない言い訳はされているが、それにしても貧弱過ぎる。

 再生されたジョニデと、自らウィルスを体内に仕込んだ妻が触れ合っただけで、コンピューターもダウンするのも“????”妻の心を斟酌しての心中だと考えるしかないし、それが正解ではあるが、それにしても「え~~?」である。そうだとするとアップロードされたジョニデには、ちゃんと理性もあったんだという結論になる。ピンの答えとジョニデの答えが一緒だから「自我が無い」と判断されるが、ピンに自我が在るのか無いのかの考察が抜けているから、この結論にはブーイングです。何より、この脚本で良しとしたクリストファー・ノーランとウォーリー・フィスター監督(「インセプション」の撮影監督)の真意が解らない。これじゃ、まるで「環境派」のプロパガンダから一歩も出ない。セリフの中にもインターネット等デジタル技術に疑問を投げかける物が多数織り込まれている。この二人のコンビで、こんな平板な作品が出来上がるなんぞ、信じられない。ジョニデにしても「パブリック・エネミーズ」「ローン・レンジャー」に引き続いての三連続コケ作品です。次回作は低予算コメディーらしい。
 本作が世界興行においても失敗に終わるとしても、それはジョニデ以下 出演者には何の責任も無いと考える。ひとえに、物語に力が無かったからです。

オール・ユー・ニード・イズ・キル
 こらぁ面白いです。久々にトム君、ミッション・インポシブル以外にヒット作品誕生です。

 SF原作はやっぱり日本人の独擅場ですねぇ。

 異星人の侵略を受けている地球、広報担当士官のトム君、無理やり絶望的な戦場に放り込まれ、殆ど瞬殺で死亡する。しかし、ある条件を満たした為、彼は時間をループして、その1日を無限に繰り返す事となる。 いわゆる“無限地獄SF”で、結構多数の作品があります。もう新機軸は無いと思いますが、本作はプロットの積み上げ、サスペンスの盛り上げが巧い(原作未読) 但し、本作鑑賞についても注意点ありです。まず、タイムパラドクス(悲観的な現在を改変するため過去に戻っても、そこから別な時間軸が発生するだけである)と、トム君が この能力を得るに至った事情には目を瞑って下さい。もう一つもタイムパラドクス絡みですが、タイムループの能力は元々 異星人の持つ能力で、トム君が勝った所で、今度は異星人がループする。

 かくして、無限地獄は永遠に続いて行く……はぁい!こんな小理屈は引っ込めて下さいませ。本作は全米公開3週目、初登場一位とは行かなかったが好調に推移、今週6位で7400万$の稼ぎ。1億$は苦しいと思いますがスマッシュヒット成績(製作費が判らんとなんとも言えませんが)は上がってます。日本人はトム君大好きですから、相対的には大ヒットになるかも、今日も結構入ってました。  
 あっと、昨日今日は先行ロードですから、月曜日に行ってもやっていません。次は7月4日からですのでご注意下さい。本作、アクションがなんと言っても圧巻、あの重そうな(実際アホほど重いらしい)パワードスーツを身にまとい、重いばかりか身動きしにくそうで、みんながに股歩きで走り回っています。男共はまぁよろしい、エミリー・ブラント(プラダを着た悪魔)が、あのか細い身体で大奮闘……涙なくして見られまへんでっせ。撮影中 生傷が絶えなかったそうで、「ああ、ここで怪我したな」と思えるシーンが多々ございました。
 映像は、あり得ないSF設定の作品ながら隅々までリアルに仕上がっており、監督ダグ・ライマン(ボーン・アイデンティティ)の手腕もさることながら、主役の二人以下 全キャストの本気の賜物です。戦場に放り込まれる・戦う・死ぬ・目覚める……そして、また戦場へ。繰り返しのシーンの連続ながらスリリングに展開して行き、死ぬごとにスキルアップしていくトム君に自分を重ねる。カタルシスたっぷり、これは見るしかありません!

 もう一つ、今日の映画とは全く関係おまへんが、先日、うちの店のチーフにあるバイク雑誌を見せてもらいました。 ”マッド・マックス”の第一作に橋の上でマックスの車と暴走族が交錯するシーンがあります。スローモーション映像の中、転げ落ち滑って行く暴走族役スタントマンの頭に、これも倒れ滑って来たオートバイがまともに激突、彼の首は有り得ない角度に曲がってしまいます。当時、このスタントマンは死んでいると噂され、「地獄の黙示録」で、カーツ帝国の河原に並んだ死体の中に、本物があるってのと(これは嘘だと すぐ証明された)同じく、侃々諤々の言い争いになっとりました。まぁ、映画に本当に人間が死ぬシーンなど入る訳はないのですが、これだけは“本物だ!”って事になっとりました……そこで件の雑誌であります。記事には、その当のスタントマンが写真入りで登場、「ありゃあ俺だよ。これこのとおり生きてるぜ」と……実に35年ぶりにモヤモヤが晴れた一瞬でありました。

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高校ライトノベル・秘録エロイムエッサイム・14(楽観的リフレイン・2)

2016-12-03 06:23:36 | ノベル
秘録エロイムエッサイム・14
(楽観的リフレイン・2)



 学校からの帰り道、サンタクロースに出会った。

 一見恰幅がいいだけの地味なお爺さんだけど、一見してサンタクロースだと分かった。多分魔力のせい。
 だから、目が合ってニッコリされると、思わず笑顔を返してしまった。
「よかった、一目で分かってもらって」
 そう言って、サンタは実のお祖父ちゃんのような気楽さで、真由の横を歩き出した。
「そこに車が止めてある。ちょっといっしょに乗ってくれるかな」
 サンタが示したところに、赤い軽自動車が見えた。運転席には、きれいなオネエサンがアイドリング掛けながら待っていた。

「ウズメさんから話は聞いていると思うんだけど……」

 後部座席のドアを開けながらサンタが言った。
「話は、ゆっくりでいいんじゃないですか?」
 オネエサンが言った。
「そうだね、時間は十分ある。どうも歳を取るとせっかちになっていけない。あ、運転してくれるのは、専属のアカハナさん」
「赤鼻のトナカイ?」
「それは、先々代のお祖父ちゃん。まあ、赤鼻ってのは世襲名みたいなもんだから、それでいいんだけど。ニュアンスとしてはカタカナで呼んでくれると嬉しいわ」
「わしも、カタカナのアカハナに慣れるのには苦労したよ」
「こだわるんですね」
「主義者だと思われるのヤダから。そんなことより肝心の話を」

 そのとき、びっくりした。ズラリと渋滞した車列を飛び越して、車が空を飛び始めたからだ。

「ウソー、空飛んでる!」
「もともとサンタの橇だから、空ぐらいは飛ぶ。だけど他の人には見えていないから」
「飛行機にぶつからんようにな」
「自動衝突防止装置付ですぅ。それよりもお話を」
「そうそう、まずこれを」
 サンタは、真由にパスのようなものを渡した。
「え……ヘブンリーアーティスト認定証?」
「ああ、本物だよ。東京の指定された場所なら、どこでも自由にパフォーマンスができるという優れものだ」
「あたし、なにもできないわ」
「なにを言っとる。日本のみんなが幸せになるんなら、なんでもしますって、ウズメさんに言ったんだろ?」

 ウズメさんとの話は、いっぱいありすぎて、全部は覚えていない。ただ楽観的リフレインでやって欲しいと言われたことだけを覚えている。希望的リフレインと聞き間違ったからだ。

「意味は似たようなもんだが、希望的にすると著作権の問題が絡んでくるんでね」
「どうも年寄りの考える言葉はダサくってさ。楽観的なんて付けると、あたしなんか小林多喜二の『蟹工船』なんか思い出しちゃう」
「あれはあれで、存在価値がある。プロレタリア文学の代表作だ」
「お祖父ちゃんみたいなこと言わないでくださいね。あんなの文学的には、ただのオポチュニズムで、無頼派ほどの価値もない」
「傑作とは、言っとらん。そういうものがかつてあったことは記憶に留めておくべきだ」
「本題からずれてま~す」
「あ、そうそう。リフレインというのは、一昔前の言葉ではヘビーローテーション。同じ曲を何度も歌ってもらう。今日から年末にかけて、真由くんは超特急でアイドルになってもらう」
「そ、そんな、あたしできない」
「エロイムエッサイムで一発じゃ。あれは敵を倒すためだけの呪文じゃない」
「今の日本は、軸が無いの。だから孫悟嬢みたいなハスッパに式神使われたりすんのよ。団結って言葉は嫌いだけど、なにか拠り所になるものが居る。それをウズメさんは、真由ちゃんに期待したのよ」
「それが、アイドルなんですか?」
「ウズメさんは、芸能の神さまだからね。得意分野できたんだろう」
「あたしは、正攻法だと思う。人の心を掴むのは歌が一番よ」
「とりあえず、上野あたりからいこうか?」
「そうじゃな。コスは儂からのプレゼントじゃ」
 サンタは、女もののサンタ服をくれた。
「ここで着替えるんですか?」
「エロイムエッサイムと、唱える」

 慣れない真由は、呪文を唱えると、一瞬下着姿になってしまった。着替えはまず脱ぐことからだという固定観念が抜けていない。

「アハハ、目の保養だったわね、サンタの爺ちゃん。そういう人間的なところが抜けない魔法使いになってね」

「え、あ、あたし魔法使いなんだ」

 サンタの車は笑いに満ちながら、上野についた。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・112『攻殻機動隊 ARISE 3』

2016-12-03 06:03:42 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・112
『攻殻機動隊 ARISE 3』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ



 これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので転載したものです。


毎度 この作品の映画評を書くのは難しい。

 士郎正宗の原作をご存知無い方には、なかなかご理解いただけないからで、それだけ原作の世界観は緻密かつ広く、どこか一カ所をすっ飛ばしても置き去りにされてしまいます。
 何も考えず、そのまま受け入れて下さい……とは言いにくい作品なのです。

 従って、物語世界を知っている者同士のオタク語りになってしまいます。アニメ作品として、新しい試みや、多彩な表現など、見るべき点は多数ありますが、やはり世界観を共有できてこその楽しみです。こればかりは、ARISEシリーズ1から見るだけでは判りません。せめて、漫画原作“攻殻機動隊1”からのご参加をお願いします。(原作には「1.5」「2」の二冊が他にありますが、とりあえず、これは今の所無視で構いません)

 さぁて、原作世界に繋がるエピソードは本作でほぼ出揃いました。

 素子は未だに公安9課の外注コンサルタントですが、トグサを除くフルメンバーで攻勢部隊を結成(資金はどうしてるんでしょうねぇ)、逆に9課荒巻に売り込んでいる気配。荒巻からは「メンバーが一人足りない」と指摘されている(荒巻の指摘の根拠が解りにくい)
 水絡みのテロ(石油の次は水っていう掴みも、アニメの新視点ではなく、91年の原作世界に登場している)や刑事の爆殺、死んだ筈のテロリストの復活などなど、従来のハードボイルドミステリー仕立てには成っているが、本作のデッカい支柱は素子のロマンス。 原作においても、素子は様々な相手(女性相手も有る)と絡んでいるが、その行為は「たとえ義体であっても、自分は人間なのだ」と確認する為の偏執的行為に見えていた(実にさりげなく、当たり前に描かれてあるだけに、かえってそう感じる。幼児期からずっと義体である彼女~この辺はテレビアニメ「STAND ALONE COMPLEX ①」~には、この欲求は生身の人間以上に強迫観念的です。
 少女時代に淡い(しかし、忘れがたい)純愛経験が有るだけに、彼女が求めるものは「心の触れ合いと無条件の信頼関係」SEXの快感は生身の人間以上なので、水に飢える砂漠の旅人のように求めて止まない。本作では、その素子の恋が重要なファクターとして描かれている。義体であるが故の相手の肉体的(?)条件と共通の興味、心の触れあわせ方が語られる。
 本作の底にはもう一つ、「人魚姫」の設定が流れている。海の中から陸の世界にこがれ、本当に人間になる為には愛する王子の命を奪わねばならず、果たせずに海の泡と消えて行く。当然、人魚姫は素子、王子は恋人・ホセとしれるが、いかにして究極の選択を迫られるかは本作のストーリーテリングの見せどころです。ただ、この設定は二重に成っていて、ホセは素子の恋人ではあるが、同じように義体……と言う事は、彼も素子と同族であって「陸の王子」たりえない。 ならば、「陸の王子」は一体誰なのか? これが意外や、殆ど生身・既婚・子持ちのあの人なんだと気付いて「ははぁ~ん」と納得が行きます。
 この点、士郎正宗の設定に元々あったものなのか、ウブカタトウのオリジナルなのかはちょっと判断しかねます。おそらくウブカタトウの読み込みなんだと思っています。
 この設定、バトーの恋愛経験なんかも見てみたいと思うのですが……思いっきりギャグ漫画にしないと、こりゃあ悲惨な話になりそうですね。バトーが同志愛を超えて、素子を想っているのは周知の事なので、出来ればこれを叶えてやりたい所ながら、物語の先では素子はNETの中に入ってしまう。バトーはどこまでもストイックに心を閉じるしかないんでしょうかねぇ。NET世界での素子の心理ってのは変化したのでしょうか? あくまでも「人間という存在」にこだわりがあってほしいとは思っています。

 今シリーズにも「意志を持つA.I.がたびたび登場します、後の「人形使い」登場の布石とも見えます。人間・全身義体・人工知能のせめぎ合いも、本攻殻ワールドの重要なファクターですね。
 本作に501部隊のクルツという女性が登場しますが、これがシリーズ②に出てきたA.I.に良く似ています。何か繋がりが在るんでしょうか。素子が引っ越して来た部屋の風景、新浜市の新旧市街の描き分けなど、画から読み取れる情報も多く、尋常ならざる作り込みを感じます。攻殻ワールドへの深い思い入れを全編に感じます。一回や二回見たからといって、到底全て汲み上げられないでしょう。

 てな訳で、作画には殆ど文句ないんですが、一点気になったのが目元の影の描き方、リアルに見える部分とやり過ぎに見える所がありました。影の在り無しで人物の性格が急変するように見える所がありました。 後、何故かサイトーが、よく居眠りしてるのは、なんでなんですかねぇ?
 さて、本シリーズも9月で終了、④の主要キャラらしき人物も本作に登場しています。さて、一体どんな結末を迎えるのでしょうか。一つの興味は、トグサをチームに加える最終決定がいかにして下されるかであります。

 少々寂しい気もしますが、たった今 続きを見たい欲求もあります。ファンなんてのは勝手なもんでありますなぁ。

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高校ライトノベル・秘録エロイムエッサイム・13(楽観的リフレイン・1)

2016-12-02 05:57:33 | ノベル
秘録エロイムエッサイム・13
(楽観的リフレイン・1)



 この角曲がったら……武蔵がいるような気がした。

 那覇の国際通りでのバトルが終わって、清明とハチと何か話したような気がしているが、真由はロクに覚えていなかった。ただ敵の名前が孫悟嬢で、負けて消滅したのではなく、まだHPに余裕を残しながらの戦略的撤退であることが「ああ、またやるのか……」という気持ちとともに残っているだけだった。
 そのあと、清明の山荘にテレポした。今度は、いきなり山荘の中ではなく、山荘に通じる山道だ。

 で、柴垣の角を曲がって、山荘の庭に入ると宮本武蔵がいるような気がしたのである。

 が、ちがった。回遊式日本庭園には似つかわしくない、アイドル姿の女の子が、まるで握手会のようにニコニコして立っていた。
「あ、ウズメさんじゃないですか」
 清明も驚いていたが、真由ほどに意外そうではない。
「どうも、今日は、アマテラス様のお使いでまいりました」
「うん、そういう格好も、ウズメさん、いけますね」
 ハチが、その横でワンワンと吠えた。
「ハチは、古事記通りのトップレスの姿がいいそうです」
 真顔で清明は、犬語を翻訳した。
「うそ、ハチも似合ってるっていってます。あたしだって犬語分かりますぅ」
「ハハ、話は面白い方がいいと思って」

 気づくと、庭園を回遊し、四阿(あずまや)に向かっていた。
「真由さん、ご苦労様でした。思いのほか大変な敵が出てきたので、アマテラス様が、急いで話を付けて来いとおっしゃって、わたしをおつかわしになりました。ご存じだとは思うんですけど、わたし天宇受売命(アメノウズメノミコト)っていいます」
「えと……雨の?」
「ああ、やっぱ、学校で記紀神話習ってないと分かんないわよね」
 ウズメは、軽くため息をついた。
「アマテラスさんが、弟のスサノオの乱暴に腹立てて、岩戸に隠れちゃうじゃない。で、世の中真っ暗闇になって、困った神さまが一計を案じ、岩戸の前でヤラセの宴会やるだろ。そのときMCやりながらエキサイトして、日本初のストリップやった女神さん」
「ああ、むかし宮崎駿のドキュメントで、そんなアニメが出てた!」
「芸能の神さまでね。タレントになる子は、みんなお参りにいく庶民的な神さま。でも、そのウズメさんが、なんでまた?」
 清明が、そう聞くようになったころには、庭を見晴るかす四阿についていた。

「国際通りに出ていた式神と孫悟嬢は、琉球独立運動のオルグなの。思った以上に数が多かったのでアマテラスさまも、ご心配でわたしをおつかわしになったの」
「あの、オルグって?」
「えと……工作員のこと」
「え、中国の?」
 
 鹿威しの音がコーンと響いた。

「中国の何千万人かの人たちの想いが凝り固まって出てきた変異だと思う」
「割合は低いけど、中国は人口の分母が多いから。思ったよりも強力になってきたみたい」

 庭では、ハチがスズメを追い掛け回している。ハチも犬なんだなと、真由は気楽に思った。
「スズメはね、トキとタンチョウと並んで中国の国鳥候補のベストスリーなの。得点稼ぎのスパイかもね」
「ここの結界は完全だよ」
「牛乳箱の下に鍵……昭和の感覚ね」
「この四阿にも結界が張ってあるよ」
「あの、ウズメさんは、あたしに御用が?」
「そう。お願いと覚悟を決めてもらうために、やってきました」
 ウズメは姿勢を正して、真由に向かい合った。

「これからは、日本を守るためにリフレインな生活を送ってもらいます」

 真由はリフレインの意味を思い出していた……たしか、繰り返しの意味だった。
「もう一つ意味があるわ。refrain from~で、何々を我慢するって意味もあるわ」

 そういうウズメは、とびきり可愛かったが、目もとびきり真剣だった。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・111『300Ⅱ』

2016-12-02 05:43:17 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・111
『300Ⅱ』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ



 これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので転載したものです。


早朝 1回目上映だったせいもあるだろうが、正直眠たい。

 全く人間がいない。ほぼ全体CG画面なのは前作と一緒なのだけど、今作は、「ああ、CGや」という風に見えてしまう。
 前作は、フランク・ミューラーのグラフィック・ノベル(要するに漫画)を映画化するスタイルなので、よりCG合成を意識して良さそうなのだけど(実際そう思ったけど)、現実には今作の方がしらける位CGアニメに見えてしまう。
 今作には、ミューラーの原画がなく、構想(後に脚本になる)のみがあり、モデルが無かったので画面は完全に映画のオリジナル。 前作は原画の決定的シーンを忠実に切り取ってあったのだが、それが何らかの化学変化を受けてリアルに歴史(神話とも言える)を見せていた。この場合の化学変化とは、役者の成りきりと人物が丁寧に描かれていた事に拠るものです。

 前作テルモピュライの100万対300の戦いは多分に神話的要素が強いのですが、本作に描かれるテルモピュライに先立つ事10年前のマラトンの戦い(第1回ギリシャ対ペルシャの戦い、ギリシャ側の勝利に終わり、戦勝報告を兵士が走ってアテネに届けた。このマラトン~アテネ間の距離が42.195㎞で、現代のマラソンの起源に成っている)とテルモピュライと同時期にあったサラミスの海戦を描いています。ヘロドトスの「歴史」にも描かれ、人物の背景も解説されている。ギリシャの将軍テミストクレスも、元はギリシャ人でありながらペルシャ艦隊の一翼に属するアルテミシアも、勿論クセルクセス王も実在の人物である(マラトンの指揮官は別な将軍だったが、本作ではテミストクレスになっている) 」

 テミストクレスは貧しい家から這い上がるようにして市民政治家になった人で、スパルタのレオニダス王のような専制君主ではない。彼は、いかに動くかを市民議会の決定に委ねざるを得ない。ここにテミストクレスの苦悩とドラマが在るはずなのですが、映画は非戦・開戦の対立をちらっと見せるだけで踏み込まない。テミストクレスの周囲の人物にも説明がない。 だからギリシャ側の人間が誰一人浮かび上がってこない。
 逆にアルテミシアは、非常に勇猛な女性であったようだが、本作ではまるで魔女で、クセルクセスは彼女の操り人形のように描かれている。
 ドラマの深度が浅くなっているばかりか、クセルクセスの人物像までが浅はかになってしまっている。画面はスプラッタホラーかと思わせる程 血みどろではあるが、人物が見えにくい為、まるでゾンビ対ゾンビの殺し合いの雰囲気、感情移入する対象が存在しない。
 歴史とはいえ、紀元前480年のお話、半分神話の世界ではあるので、映画的脚色も許せるとは思うけど、もう少し人間を描くべきだった。 画面にも“??”と思わせるシーンがたびたび有って、後進の指示が出ているのに櫂が全く動いていなかったりするのは興醒め。
 海戦のシーンにしても、この繰船で、どうやって敵のド#☆◆○に突っ込めるのか解らない。どうせCGならもっとスマートに見せられる筈である。
 てな訳で、迫力の映像ではあるが真価を発揮出来ていないと見える。“ノア”にも共通の問題で、ドラマのどこに重点を置くのか……最重要視点は一つに絞り込んでおかないと、散漫な印象の作品になってしまう。
 これらの問題が脚本にあるのか編集にあるのかは不明ながら、現実にグラフィック・ノベルが無いのだから罪の有りどころとしては半々ですかね。
 フランク・ミューラーは現在のヒーローコミック映画全盛の立役者ですから、年がら年中製作現場に呼ばれるらしい。その為、本業のイラスト・ストーリーがお留守になるらしい、痛し痒しですね。本作の為には、イラスト原作があった方が良かったと思います

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高校ライトノベル・秘録エロイムエッサイム・12(促成魔女初級講座・実戦編・2)

2016-12-01 06:31:51 | ノベル
秘録エロイムエッサイム・12
(促成魔女初級講座・実戦編・2)



 まき散らした紙屑は、真由の周りに一杯になって旋回し、広がったかと思うと、数百人の真由になった。

「あたしがいっぱい!」
 びっくりしたのは、国際通りのお土産ビルの最上階のフロアーだった。ちょっとしたレストラン街になっているフロアーで、様々な食材の匂いが立ち込めていた。現実の国際通りと、そこにあるお土産ビルと少しも変わらないんだけど、ビルの中には真由と清明しかいなかった。

 表通りでは、無数の色の薄い者たちと、真由そっくりな式神たちが、睨み合っていた。

「やつらは、本体の真由を探しているんだ。見つかる前にバトルを始めなさい」
「あ、はい」
 真由は、無意識にバトルを始めた。瞬間コントローラーの〇ボタンが頭に浮かんだ。
「安心して戦いなさい。Z指定の様式にはなっていないから、相手をやっつけても血が流れたり、手足が吹き飛んだりはしない」
 真由は、少し安心した。ゲームでも『バイオハザード』みたいなものは苦手だ『ファイナルファンタジー』のような、血しぶきが出ない、やりこみ系のRPGが得意だ。

 式神たちは、数は少ないがHPの値が高く、敵の攻撃を受けても容易には倒されなかった。また式神同士の連携がよく、一人の式神が敵に取り囲まれると、どこからか仲間の式神が集まり、敵を倒していく。
 中には、仲間の支援が間に合わずに苦戦する式神もいた。つい助けてやりたくなる。
「助けちゃ、この場所が分かってしまう。じっと辛抱して見ているんだ」

 敵の式神は、真由の式神のツーアタックぐらいで消えてしまうが、真由の式神はガードが高かった。一撃をくらうと、着ている服が一枚ずつ無くなっていく。どうやら、服がガードになっているようである。
 中には、仲間との連携が悪く、裸同然になっている式神もいる。
「あの裸になっていくの何とかならないんですか?」
「あれは、君の頭の中で作った、最高のガード方法だからね。ボクには手の出しようがない」
 と言いながら、清明はなんとなくニヤニヤしているようにも見えた。

 十分ほどのバトルで、敵のザコの式神はほとんどいなくなった。

「これ、チュートリアルですか。なんだかあっけなく済んでしまいそうなんですけど?」
「いや、実戦だよ。そろそろボスが……」
 清明が呟いたとき、真由の式神たちは全員素っ裸になったかと思うと、あっさり消えてしまった!

 なんと、数少なくなった敵の真ん中で、光り輝いている小学生低学年程の少女がこちらの窓を見上げていた。

「あれがボスだ。外に出るよ!」
 テレポのようにして路上に出ると、今までいたお土産ビルが、一瞬でカオスに飲み込まれたようにグニャッとなって消えてしまった。
「あなたね、私たちの新しい敵は?」
 小学生の少女の姿ではあるが、言葉には凄味があった。

 不意に魔法攻撃が頭に浮かんだ。観察を頭に思い浮かべると、敵のHPとMPが分かった。真由自身の倍はある。
 いきなり火属性の魔法攻撃をくらった。防御が間に合わず、真由は下着姿になってしまった。
「フフ、ザコと同じように服で防御しているだけのようね。じゃ、素っ裸にしたうえでトドメをさしてあげるわ」
 真由は反射的に魔法防御をかけた。だが、敵は、まさかの風属性の魔法をかけてきて、下着の上が吹き飛ばされてしまった。
「ハハ、あんたってバスト貧弱なんだね」
 小学生の姿で言われるので、恥ずかしいより腹が立つ。
 再生魔法をかけると、服は元通りになった。
「バカね、見場に気を取られて。今の再生魔法で、あなたのMPゼロになってしまったわよ。下手な羞恥心が命とりになるの覚えておきなさい!」
 敵のガキは、連続攻撃を加えてきた。真由は反射的にガードしていったが、そのたびに着ているものがなくなり、あっという間に、元のパンツ一丁になってしまった。

「トドメ!!」

 閃光が走り、真由は自分の浅はかさを思い知らされた……その瞬間、敵のガキが倒れていた。

「仲間がいたのね。ぜんぜん気配を感じなかったけど、あんたの周囲に二つエネルギーを感じる……」
 そう呟きながら、ガキの姿はフェードアウトするように消えてしまった。

 静かになった国際通りには、清明とシーサー姿のハチが居るだけだった……。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・110『ノア~約束の舟』

2016-12-01 06:11:57 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・110
『ノア~約束の舟』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している映画評ですが、もったいないので転載したものです。


ようやく見られました、本作は製作段階から賛否両論、クランクアップ後、ヴァチカンに推薦を頼みにいって断られている。

 ただ、プレミア公開後は賛否の声が止み、静かになった。売り上げは低めのスマッシュヒット程度、製作費が不明なので採算が取れているのかはよく分からない。
 画像は良く出来ているとは思うが、どうも盛り上がりに欠ける。世界観が解りにくいのが一因だと思う。
 これは、アメリカ人も同じように感じたんじゃないだろうか。
 物語は、キリスト教信者でなくとも皆さんよ~くご存知のお話。アダムとイブの楽園追放後、大地に満ち溢れた人間達のあまりの罪深さに神は深くお怒りになり、人間を滅ぼしてしまおうとされた。神は“正しき人ノア”に方舟を造り、全ての動物をヒトツガイずつ守れ、地上を水で満たし方舟に乗るもの以外は総て滅ぼしてしまうと告げられる。さあ、ここで何故、人間以外の動物がヒトツガイだけなんだとはお聞き下さるな、一応答えは持ってますが、説明しだすと膨大になります(だって、魚は全部助かる訳ですし…)
 ノアが人々に笑われながらも指示された通りの大きさの方舟を造りあげると、ヒトツガイづつの動物達が集まって乗り込んだ。それと同時に天の水門が開き滝のような大雨が降り始め、地上は間もなく水に覆われ沈んでしまう。雨は40日降り続けてようやく止んだ。ノアは烏を放って大地の様子を探るが、烏は何の手がかりも持たず帰って来る。
 続いて鳩を放つと、鳩はオリーブの小枝をくわえて戻った。やがて水は引き、方舟はアララト山(アゼルバイジャンに本間にある山)山頂にたどり着いた。世界はそこから再生されて行った……と言うお話であります。

 この話は旧約聖書の創世記の始めの方に有ります。僅かなページであまり詳しい記述はありません。洪水神話は聖書以外にも在りまして、一番古いのはメソポタミアのギルガメッシュ神話です。旧約聖書の世界はメソポタミアと重なっており、“ノアの方舟”はこのギルガメッシュが下敷きだと言われています。 面白いのは、ニューギニア・南太平洋にも、殆ど同じ神話が有り、この神話では3羽目の鳥を放ったが、その鳥は帰って来なかった。確か、3羽目の鳥が新天地への案内人を連れて来る筈で、舟を造った老人は森の中に姿を隠し(死んだという意味)、今も鳥の帰りを待っている。このニューギニアの神話を、現地に伝道に入った伝道師が聞いてビックリしたそうであります。
 奥地に入ってくる軽飛行機から食料やら農耕道具やらが出て来るので「鳥が帰ってきた」と騒ぎになり、聞きただした所、この神話を聞かされたと言われています。この話は起源が解らないので、どの位前から語り継がれているのか不明です。

 閑話休題、映画に戻りまして、画面には全地球を台風のような雲が無数に覆っている画が映し出されています。これで、全球大雨になったというわけですね。
 旧約聖書の記述だけではプロットにもならない為、聖書以外の外典(聖書には採用されなかったが、正当とされる文書)や異端とされる文典(死海文書など)やキリスト教以外の文典にまで渉猟してストーリーを組み上げたようです。この辺りが、本作を否定的に見る人々の根拠でしょう。
 聖書には登場しませんが、ノアの祖父・メトセラやカインの末裔が王として出て来ます。この二人が極めて大きな意味を持っています。
 無宗教の人間が“信仰”を理解しにくいのは“神の意志”をいかに理解するのかっていう所につきます。 端的に言って“神の意志”は、無条件に従うものであって理解するものではありません。エデンの園で、蛇にそそのかされて“知恵の実”を食べなければ、人間は汚れを知らずに生きられたのですが、半端に知恵が付き、半端に神に近い存在になってしまったが故に苦難の人生を生きる存在になってしまった訳です。
 カインの末裔達は、この事に対して怨み骨髄(彼らにはもう一つ怨みが有りますが)「神の助けなどいらない」と叫ぶ。
 ただ、本作では神を否定しているのではなく、絶えず呼びかけているのに応えてくれない神に絶望している設定になっている。後半、このカインの末裔たる王が、イブに対する蛇のように、ノアの次男ハムに語りかける。実は、ノアは誰にも語らなかったが、ある重大な決意を秘めており(これも聖書には無い設定)、これを実行するか否か、王の囁きはこの点に関して重大な意味を持っています(あ~~~イライラする! ノアの秘密は重大伏線だから書けない! だから遠まわしにしか書けない。)
 本作では、神の意志は声として聞こえるのではなくビジョンとして見える事になっています。
 この指示にいかに従うか、ここにノアの人間としての懊悩が現れてきます。聖書にはノアの懊悩など出てきません。
 本作の弱い所は、この物語を相対的に分析しすぎたという所に尽きます。絶対的な神の物語を、人間の視線で再構築した、要するに滅ぶべき人間の言い分に幾らかなりとも正当性を持たせたという事です。
 ご存知ない方には誤解があると思いますが、この旧約聖書の世界は厳密にはキリスト教ではありません。この世界はユダヤ教世界であり、キリスト教は形としてはユダヤ教の一派です。ちなみにイスラム教もユダヤ教の分派です。だから旧約聖書に登場する預言者はイスラムにとっても預言者ですし、教典の中には創世記も出エジプト記も、その他の章も含まれています。
 本来は人間が発音出来ない名前なのですが、それをヤハウェと呼び、エホバと言い、アラーとも表す。これらは総て一つの“唯一神”“創造主(CREATER)”を現しています。
 本来、唯一神は厳しく非情なものです、しかし、厳しいも非情も人間から見ればの事であって、当の神様にしてみれば関係ない話。キリスト教も、この厳しさや非情さを受け継いではいますが、優しい愛の宗教とも呼ばれています。それは、キリストが人の罪を許す為、自ら十字架にかかった。その大きな愛が教えの中心にあるからです。
 映画は、この古いユダヤ教(もっと厳密に言えばプレ・ユダヤ教)の厳しく救いの無い(人間からすれば)話に“愛の救い”を織り込みたかったのかもしれません。
 だから、厳しい宗教映画にも出来ず、まさか単なるデザスターにもファンタジーにもするわけにいかず。人間ドラマを全面に押し出す訳にも行かなかった。面白おかしく作っているのではなく、大真面目に苦闘した跡は見てとれますが、あまりに多角的な視点から描こうとしたがため、せっかくの作品の中心が見えにくくなっています。キリスト教徒たる人々であろうとも世界観をつかみにくいだろうと思うのは、この事情からです。

 ノアの方舟は、あまり映像化されていません。大昔にあるのと、80年代「天地創造」の一部分、後はショートフィルムが有るくらいで、テレビドラマに一本(ジョン・ボイトがノア……やったと思います)ありましたね。あんまり覚えていないんですが、悪魔が小舟に乗って方舟をつけまわすエピソードがありました。
 それにつけても、毎回思うのは“方舟”があまりに立派に“船”の形をしてるんやなぁと言うことで、素直に聖書を読むと、縦・横・高さの寸法しか出てきません。竜骨をどうせいの、舵はどうだのの指示はありません、要するに馬鹿でかい、まさに“箱”を作れといわれているとしか思えない。 今作は、まさに四角い箱を作っています。これには唸りましたねぇ。しかも、実寸通りに、全長だけは3/2のセットを組んだそうです。その分リアルな画が撮れています。
 動物達は一部を除いてCGですが、そらそうですわな。動物っちゃ、膨大な数の彼らをいかに40日間養ったのかについても聖書には記述がありません。この解決策にも唸りました、なぁ~るほどね、そうきますか。
 ちょっとけなした評価にはなってしまいましたが、駄作ではありません。それぞれに感じる所も意味も違うとは思いますが、必ず誰にも見るべきシーンがあると思います。ハリー・ポッターのエマが、ノアの養女であり、長男セムの妻として方舟の中で子を産みます。ああ、あのハーマイオニーが……感慨ひとしおでありました。 それと、本作にはヤハウェもエホバも、もっと言うならGODという単語も出てきません。終始ノアは“CREATER”と呼んでいます。これに翻訳の戸田さんは「神」と言う訳を当ててはりました。“創造主の創造物”っちゅうセリフがわりと多いですから「神」とする方が収まりはええんですが……まぁ、やめときましょう。これをいいだすとまた長い話になります。
 お薦めか否か……スケールもスペクタクルもありますからお薦めいたします。いつもは、見ながら小理屈つけなはんなと言ってますが、本作の場合は逆で、映画の中の理屈をあまり気にしないで下さい…と、申し上げておきます。

 長々のご精読、感謝感激〓

コメント
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