玄宗皇帝は、馬嵬(バカイ)から蜀に向かい、一先ず蜀に落ち着いた。皇太子・李亨(リリョウ)は、安禄山に対抗すべく残り、霊武(現寧夏寧夏回族自治区銀川)に向かい、宦官・李輔国の建言を容れて皇帝に即位した(粛宗)。態勢を整えて鳳翔(ホウショウ、現宝鶏)に親征し反撃に転じる。
757年、安禄山が息子・安慶緒に殺されると、粛宗は、長男・李俶(次代の皇帝・代宗)や次男・李係らと共働して長安や洛陽を奪還した。粛宗は10月、玄宗は12月に長安に帰還した。今回の長恨歌は、長安への帰路途中、馬嵬で足を止めた際の情景である。
詩人・杜甫も安史の乱で難儀を強いられました。杜甫は、長安脱出に失敗、反乱軍に捕縛され、長安に幽閉された。ただ無名人故に、長安城内に留め置かれただけで、捕虜としての扱いはなかったようである。757年4月、城を脱出、鳳翔の粛宗の下へ奔っている。
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<白居易の詩>
長恨歌 第三段 一の1
51 天旋日転廻龍馭 天旋(テンメグ)り日転(ヒテン)じて 龍馭(リュウギョ)を廻(メグ)らし
52 到此躊躇不能去 此(ココ)に到りて躊躇(チュウショ)して去る能(アタ)はず
53 馬嵬坡下泥土中 馬嵬(バカイ)坡下(ハカ) 泥土(デイド)の中(ウチ)
54 不見玉顏空死処 玉顔(ギョクガン)を見ず 空しく死せし処
55 君臣相顧尽霑衣 君臣相顧(アイカエリ)みて 尽(コトゴトク)く衣(コロモ)を霑(ウルオ)し
56 東望都門信馬歸 東のかた都門(トモン)を望み馬に信(マカセ)て帰る
註] 〇天旋日轉:時が移り、世がかわる。安史の乱の終息を示す; 〇龍馭:天子
の車; 〇馬嵬坡:長安から西へ100km足らず、楊貴妃の亡くなった地。
“坡”は坂道、傾斜面; 〇信馬:馬の歩みのままに。“信”はまかせる。
<現代語訳>
51 やがて天下の情勢が一変して、皇帝も長安に帰ることになったが、
52 この場所に至って、足はためらい、立ち去ることができない。
53 ここ馬嵬の堤の下、泥土の中に埋められ、
54 楊貴妃の美しい顔はもう見られず、空しく殺された場所だけが残っている。
55 君臣ともに、振り返りつつ、みな涙で衣を濡らし、
56 東の方の都の城門をめざして、馬の歩みにまかせて帰って行った。
[石川忠久監修 「NHK新漢詩紀行ガイド」]
<簡体字およびピンイン>
天旋日转迴龙驭 Tiān xuán rì zhuǎn huí lóng yù [去声六御韻]
到此踌躇不能去 dào cǐ chóuchú bù néng qù
马嵬坡下泥土中 Mǎ wéi pō xià ní tǔ zhōng
不见玉颜空死处 bùjiàn yù yán kōng sǐ chù
君臣相顾尽沾衣 Jūn chén xiāng gù jǐn zhān yī [上平声五微韻]
东望都门信马归 dōng wàng dū mén xìn mǎ guī
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杜甫(712~770)は、中国文学史上群を抜く盛唐時詩人のひとりで、李白・詩仙、王維・詩仏に対し杜甫・詩聖と称されている。特に絶句を得意とした李白と対照的に、律詩の表現を大成させ、“李絶杜律”と、2大詩人の特徴を簡潔に評した表現で語られる。
杜甫の先祖には『晋書・杜預(トヨ)伝』という一書が建てられるほどの武将・“杜預”がいる。三国~晋代に活躍し「破竹の勢い」の故事を遺している。魏・呉の戦で、「竹に割れ目が入れば、後は簡単に割ることができること」の譬え:譬如破竹(ヒジョハチク)」のとおり、「破竹の勢い」で攻勢、呉に勝利したという。
杜甫の祖父・杜審言(トシンゲン)は、初唐、則天武后(在位 690~705)の代に宮廷詩人として活躍した。特に五言律詩に優れ、詩40首が伝わっており、『唐詩選』に8首収められていると。李嶠(リキョウ)、崔融(サイユウ)、蘇味道(ソミドウ)らとともに“文章四友”と呼ばれた。
杜甫は、「先祖の杜預以来、儒者の伝統を継ぎ、士官の家として11代、杜審言に至り文学を以て世に知られるようになった。先祖の偉業を継いで、40年も経とうとしているのに……、願うらくは天子の憐れみを賜らんことを,……」と、しばしば賦頌を奉り、就職活動を行っていた。
ことほど左様に、社会的な面では必ずしも才能に相応しい安寧な生涯を送ったとは言い難いようである。その生涯を振り返ってみたいと思います。712年、河南省鞏県(現河南省鄭州市鞏義市)で生まれる。少年時代から詩をよくした と。
20代の前半は江蘇、浙江の辺、30代半ばには河南、山東に放浪生活を送る。24歳時、科挙の進士を受験したが落第。また36歳時、一芸に通じる者の為の試験を受けたが落第している。後者の場合は、文学の士の政治批判を恐れた宰相・李林甫の指金によるようだ。
以後、杜甫は、高官、貴顕の門に出入りして、詩を献ずる就職活動を行っていく。それが功を奏し、44歳(755年)、右衛率府兵曹参軍に任じられる。しかしこの年“安史の乱”勃発、翌年長安は陥落した。粛宗が即位したことを知り、家族を鄜州(フシュウ)に残して、粛宗の許を目指すが、反乱軍に捕まり、長安城中に幽閉される。
翌757年4月金光門から脱出して鳳翔の粛宗の下に奔った。その功により、左拾遺の位を授かった。ところが任官早々、失脚の宰相房琯(ボウカン)の罪を弁護して粛宗の怒りに触れ、左遷された。義侠心が裏目に出たようだ。
759年(48歳)暮れ、家族を連れて、蜀道の険を越えて成都に赴く。一先ず寺に身を寄せるが、760年、浣花渓(カンカケイ)のほとりに草堂(杜甫草堂)を建てる。そこに5年ほど留まっており、この時期、もっとも安寧の内に過ごすことができた時であったろう。
765年(54歳)、長江を下り襄陽を経て、故郷・洛陽さらに長安を目指して漂流の旅に出ます。翌年夔州(キシュウ、現重慶市北東部)に滞在、近傍の白帝城、武侯廟、ほか夔州の名勝を訪ねる。57歳、白帝城の下から舟を出し、江陵に向かう。
北方はまだ荒れた状態である事を知り、江陵から長江をさらに下り、洞庭湖の北、岳州(現湖南省岳陽市)に至った。770年(59歳)、潭州(タンシュウ、現湖南省長沙市)から湘江を南に遡り、衡州(コウシュウ、現湖南省衡陽市)に入ったところで、杜甫は高熱に苦しむ。
更に南下して耒陽(ライヨウ、現湖南省衡陽市)まで来て洪水に遭い、5日間食事を摂らず漂っていた と。その前後は記録がなく不明であるが、此処湘江の舟中で客死した と。後世、耒陽の県令にもらった肉と白酒を摂り過ぎ亡くなった との伝説が語られている。なお、遺体は近傍で仮葬されていたが、のちに孫によって現在地(鞏義)に移葬された由。
詩人としての杜甫は、生前は評価されることなく、没後数十年経て中唐期以後、正当に評価されるようになったようである。杜甫の詩の特徴は大きく4期に分けて捉えられると。I期:社会・政治の矛盾を積極的に取りあげた時期(~44歳)、II期:安史の乱の体験(~48歳)、III期:成都時代(~54歳)および IV期:夔州滞在以後(~59歳)。
[句題和歌]
長恨歌の第54句 《不見玉顏空死処》に想いを得た和歌を紹介します(千人万首、asahi-net.or.jpに拠る)。作者・源道済(ミナモトノミチナリ)は、平安中期に活躍した光孝源氏の貴人、歌人。漢詩文にも秀でた人で、『拾遺和歌集』の撰集にも関っている。中古三十六歌仙の一人。
思ひかね 別れし野辺を 来てみれば
浅茅が原に 秋風ぞ吹く(源道済『詞花和歌集』337)
(大意) 恋しさに耐え切れず、死に別れた場所に来てみると すっかり荒れ果てて
おり 秋風が吹くばかりである。
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