この二句:
容(カタチ)を動かせば 皆 是(コ)れ舞(マイ)、
語を出(イ)だせば総(スベ)て詩と成る。
「酔うほどに身ごなしは即ち舞姿であり、発する言葉はそのまま詩となるのだ」。
その楽しみは、酔って初めて解るのである、と初唐・張説先生のご高説である。お酒の効用、この詩(五言絶句、下記ご参照)に尽きるように思われます。
「項羽と劉邦」の話題、少々長い道草でしたが、本稿の主題“酒に対す”に戻ります。先ず、酒の効用・功徳を。
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醉中作 唐・張説
醉後方知樂, 醉後(スイゴ) 方(マサ)に樂しみを知り、
弥勝未醉時。 弥(イヨ)いよ 未だ醉はざる時に勝(マサ)る。
動容皆是舞, 容(カタチ)を動かせば 皆 是(コ)れ舞(マイ)、
出語総成詩。 語を出(イ)だせば総(スベ)て詩と成る。
註]
醉中:酔っぱらった状態のとき
方:いままさに、ちょうど
弥:ますます、さらに
動容:立ち居振る舞い; 容:容貌、姿
出語:言葉に出す、ものを言う
<現代語訳>
酔った折の作
酒に酔って初めてその楽しみがわかる、
酔えば酔うほどにますます正気の時に比べて気分がよくなるのだ。
酔った時の身ごなしは即ち舞姿であり、
発する言葉はすべてそのまま詩となる。
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作者張説(チョウセツ/チョウエツ)(667~730)は、初唐の政治家・文学者・詩人である。洛陽(河南省)の人で、貧しい家の出であった。当時権力の座にあった武則天(則天武后)の人材登用策により、進士に合格(688、21歳)して政界に入る。
文官、武官として経歴を重ね、武則天に重用されていきます。共に重臣である魏元忠と張易之・昌宗兄弟との間の政争に巻き込まれて、欽州(広東省)に流罪となったことがある(703)。
この政争とは、張易之・昌宗兄弟が、“魏元忠は謀反を企てている”と武則天に誣告し、張説は官位を餌に偽証を求められたという。対して張説は、“告発は虚偽であり、魏元忠は無実である”と主張して、流罪になった と。
このことで信頼を得て、後に中宗に朝廷へ呼び戻され、睿宗(エイソウ)・玄宗に重用されるようになる。その間、左遷・復活・昇進を繰り返し、宰相も経験、最後に尚書左丞相として病没している。“硬骨漢”張説と言えようか。
詩文に優れ、宮廷詩人として代々指導的地位にあった。現在、三百五十首ほどの詩が残っているようで、詩文集『張説之文集』がある。文章は、燕国公(張説)と許国公(蘇頲(ソテイ))と並んで、「燕許大手筆(シュヒツ)」と称された、と。
武則天(624~705;在位690~705)について簡単に触れておきます。生家の武氏は、唐初の政治を担った貴族集団の中では傍流の家系であったが、代々財産家であったため高度の教育を与えられて育っています。
太宗(李世民)の後宮に入り(637)、のち高宗(李治)の皇后となります(655)。武皇后は、高宗に代わり政治を行い、権力を掌握していきます。しかし有力貴族の支持がない中、権力基盤を固めるため人材を積極的に登用していきます。
人材の採用に当たっては、出自を問わず、才能と武皇后への忠誠心を重視した。上の詩の作者・張説は、当時登用された人材の一人でした。その他、姚崇(ヨウスウ)と宋璟(ソウケイ)は、後に玄宗の下で“開元の治”を導いた逸材であった。
高宗が崩御すると、太子の李顕(中宗)、続いて弟の李旦(睿宗)が帝位に即くが、武皇后の傀儡に過ぎない。武則天は、690年帝位に即き、国号を「周」とした。中国史上唯一の女帝となる。王朝名は、“武周”と呼ばれている。
武則天は、705年2月22日に退位、同12月16日に没した。706年5月、乾陵に高宗と合奏された。諡号は、遺詔に「帝号を取り去り則天大聖皇后とすべし」とあった と。しかし諡号は、唐王朝でも数度変更されている。
追記]
武則天の名称:日本では“則天武后”と通称されており、筆者も同様に記載してきた(閑話休題81)。諸資料によれば、その呼称は、自らの遺詔に従って“皇后”の礼をもって埋葬された という事実を重視したものである と。
諱(イミナ)は照(曌)である。中国では古来“則天”と姓名をはっきりさせずに呼ばれてきていて、現在、それに姓の“武”を冠して“武則天”と呼ぶのが一般的である と。
本稿では、身分や地位に関係なく“本人”を指す場合は、“則天武后”や馴染みの薄い諱の“照”ではなく、“武則天”とした。皇帝即位後に、“皇后”の意味合いを含んだ“則天武后”の名称で記載を進めるのに違和感を覚えたからである。
蛇足]
武則天は、“則天文字”と呼ばれる新しい文字を造っている。自分の諱も“照”を“曌(空の上に日と月)”とした。読み・ピンインはともに“ショウ・Zhào”であるが。徳川光圀の“圀(口の中に八方)”もそうで、“國”中の、“惑”に通じる“或”を忌み嫌ったようである。
容(カタチ)を動かせば 皆 是(コ)れ舞(マイ)、
語を出(イ)だせば総(スベ)て詩と成る。
「酔うほどに身ごなしは即ち舞姿であり、発する言葉はそのまま詩となるのだ」。
その楽しみは、酔って初めて解るのである、と初唐・張説先生のご高説である。お酒の効用、この詩(五言絶句、下記ご参照)に尽きるように思われます。
「項羽と劉邦」の話題、少々長い道草でしたが、本稿の主題“酒に対す”に戻ります。先ず、酒の効用・功徳を。
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醉中作 唐・張説
醉後方知樂, 醉後(スイゴ) 方(マサ)に樂しみを知り、
弥勝未醉時。 弥(イヨ)いよ 未だ醉はざる時に勝(マサ)る。
動容皆是舞, 容(カタチ)を動かせば 皆 是(コ)れ舞(マイ)、
出語総成詩。 語を出(イ)だせば総(スベ)て詩と成る。
註]
醉中:酔っぱらった状態のとき
方:いままさに、ちょうど
弥:ますます、さらに
動容:立ち居振る舞い; 容:容貌、姿
出語:言葉に出す、ものを言う
<現代語訳>
酔った折の作
酒に酔って初めてその楽しみがわかる、
酔えば酔うほどにますます正気の時に比べて気分がよくなるのだ。
酔った時の身ごなしは即ち舞姿であり、
発する言葉はすべてそのまま詩となる。
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作者張説(チョウセツ/チョウエツ)(667~730)は、初唐の政治家・文学者・詩人である。洛陽(河南省)の人で、貧しい家の出であった。当時権力の座にあった武則天(則天武后)の人材登用策により、進士に合格(688、21歳)して政界に入る。
文官、武官として経歴を重ね、武則天に重用されていきます。共に重臣である魏元忠と張易之・昌宗兄弟との間の政争に巻き込まれて、欽州(広東省)に流罪となったことがある(703)。
この政争とは、張易之・昌宗兄弟が、“魏元忠は謀反を企てている”と武則天に誣告し、張説は官位を餌に偽証を求められたという。対して張説は、“告発は虚偽であり、魏元忠は無実である”と主張して、流罪になった と。
このことで信頼を得て、後に中宗に朝廷へ呼び戻され、睿宗(エイソウ)・玄宗に重用されるようになる。その間、左遷・復活・昇進を繰り返し、宰相も経験、最後に尚書左丞相として病没している。“硬骨漢”張説と言えようか。
詩文に優れ、宮廷詩人として代々指導的地位にあった。現在、三百五十首ほどの詩が残っているようで、詩文集『張説之文集』がある。文章は、燕国公(張説)と許国公(蘇頲(ソテイ))と並んで、「燕許大手筆(シュヒツ)」と称された、と。
武則天(624~705;在位690~705)について簡単に触れておきます。生家の武氏は、唐初の政治を担った貴族集団の中では傍流の家系であったが、代々財産家であったため高度の教育を与えられて育っています。
太宗(李世民)の後宮に入り(637)、のち高宗(李治)の皇后となります(655)。武皇后は、高宗に代わり政治を行い、権力を掌握していきます。しかし有力貴族の支持がない中、権力基盤を固めるため人材を積極的に登用していきます。
人材の採用に当たっては、出自を問わず、才能と武皇后への忠誠心を重視した。上の詩の作者・張説は、当時登用された人材の一人でした。その他、姚崇(ヨウスウ)と宋璟(ソウケイ)は、後に玄宗の下で“開元の治”を導いた逸材であった。
高宗が崩御すると、太子の李顕(中宗)、続いて弟の李旦(睿宗)が帝位に即くが、武皇后の傀儡に過ぎない。武則天は、690年帝位に即き、国号を「周」とした。中国史上唯一の女帝となる。王朝名は、“武周”と呼ばれている。
武則天は、705年2月22日に退位、同12月16日に没した。706年5月、乾陵に高宗と合奏された。諡号は、遺詔に「帝号を取り去り則天大聖皇后とすべし」とあった と。しかし諡号は、唐王朝でも数度変更されている。
追記]
武則天の名称:日本では“則天武后”と通称されており、筆者も同様に記載してきた(閑話休題81)。諸資料によれば、その呼称は、自らの遺詔に従って“皇后”の礼をもって埋葬された という事実を重視したものである と。
諱(イミナ)は照(曌)である。中国では古来“則天”と姓名をはっきりさせずに呼ばれてきていて、現在、それに姓の“武”を冠して“武則天”と呼ぶのが一般的である と。
本稿では、身分や地位に関係なく“本人”を指す場合は、“則天武后”や馴染みの薄い諱の“照”ではなく、“武則天”とした。皇帝即位後に、“皇后”の意味合いを含んだ“則天武后”の名称で記載を進めるのに違和感を覚えたからである。
蛇足]
武則天は、“則天文字”と呼ばれる新しい文字を造っている。自分の諱も“照”を“曌(空の上に日と月)”とした。読み・ピンインはともに“ショウ・Zhào”であるが。徳川光圀の“圀(口の中に八方)”もそうで、“國”中の、“惑”に通じる“或”を忌み嫌ったようである。
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