愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題77 飛蓬 漢詩を詠む-15 ― 曹植-転蓬

2018-06-09 16:03:44 | 漢詩を読む
“蓬(ムカシヨモギ類)”に纏わる用語“転蓬”が含まれる曹植の詩「吁嗟(ウサ)篇(嘆きのうた)」を読みます。

曹植(192~232)は、三国時代の魏王・曹操(155~220)の四男です。多芸多才、学識豊にして、武人として、また政治的感性も勝れていたようです。兄の曹丕(文帝、187~226)との後継争いに敗れ、地方に追いやられました。

政治に関与して世のために尽くしたいと大志を抱き、度々政策を上奏しながらも聞き入れられず、却って地方を転々と移封されます。その不幸な身の鬱積する想いを詠ったのが「吁嗟篇」で、起句に“転蓬”が出てきます。

以下に詩「吁嗟篇」を挙げました。24句から成る長編ですが、その最初と最後の数句を示してあります。

xxxxxxxx
吁嗟篇。
1 吁嗟此転蓬、 吁嗟(アア) 此の転蓬(テンポウ)、
2 居世何独然。 世に居(オ)ること 何ぞ独り然(シカ)る。
3 長去本根逝、 長(トワ)に本(モト)の根を去りて逝(ユ)き、
4 夙夜無休間。 夙夜(シュクヤ) 休間(キュウカン)無(ナ)し。
…… …
…… …
19 流転無恒処、 流転(ルテン)して恒処(コウショ)無(ナ)く、
20 誰知吾苦艱。 誰か知らん 吾が苦艱(クカン)。
21 願為中林草、 願わくは中林(チュウリン)の草と為(ナ)り、
22 秋隨野火燔。 秋には野火(ヤカ)に隨(シタガ)いて燔(ヤ)かれん。
23 糜滅豈不痛、 糜滅(ビメツ) 豈(ア)に痛(イタ)まざらんも、
24 願與株荄連。 願わくは株荄(シュガイ)と連(ツラ)ならん。
註]
吁嗟:激しい嘆きをあらわす感嘆詞
夙夜:朝早くから夜遅くまで
休間:ゆっくりとする
苦艱:つらい目にあって、苦しみ悩むこと
中林:林中と同じ
野火:秋の収穫が終わって耕地に放つ火
燔:焼く
糜滅:粉砕すること
株荄:株と根、元の血縁をいう

<現代語訳>
ああ、この転蓬の身よ、
この世にあって、なぜわたしだけがこんな運命なのか。
元の根を離れて久しく、
朝も夜も休む時もない。
…… …
…… …
転々とするばかりで、落ち着く場所はなく、
このわたくしの辛さを知る人はいない。
できるものなら林の中の草になって、
秋の野火とともに身を焼かれたい。
粉々に砕かれて痛くないはずはないが、
それでも元の株や根につながっていたい。
xxxxxxx

詩の中間、5~18句は省略しましたが、その内容は、概略次のようです。転封また転封と、封地を移される自らの境涯を、天地自然の中、風に舞い、飛ばされる蓬草に託して詠っています。

「東かと思えば西、北へ かと思えば南へ。いきなりつむじ風に逢い、果てしなく雲のむこうに消えるかと思えば、深い淵に突き落とされる。ひらひらと風に舞い、数々の沼沢を過ぎ、また五岳の山々を越して行く。」

曹植は、政治的には斯様な不遇な生涯を送り41歳の若さで世を去っています。その生涯の概略を追っておきます。

後漢の権威が失墜して、世が乱れ、‘黄布の乱(184)’を契機に豪族たちの世直しの主導権争いが繰り広げられました。終には、魏・呉・蜀の三国鼎立がなります。その間の歴史の流れは、多くの歴史書や小説で活写されている通りです。

魏王・曹操の正室は丁氏でしたが子がなく、また側室劉氏に2男子いたが、早世した。一方、卞(ベン)氏は、長子は早世し、他に4男子(曹丕、曹彰、曹植及び曹熊)あり、丁氏が亡くなる(197)と正室となります。すなわち卞氏の子息は正嫡となります。

曹操の後継争いが表面化していく中で、特に才能豊かな曹丕と曹植の間には側近を巻き込んで争いが激しくなりました。217年、結局、曹丕が天子に指名されます。

曹操が没する(220)と、曹丕は、後漢の献帝から帝位の禅譲を受けて初代の魏皇帝“文帝”となります。曹植の側近たちは迫害を受けまたは殺害され、彼自身は繰り返し転封されるという生涯を送ることになります。

この時代、文学の面でも大きな変革が見られています。曹操は各地から文才の士を集め、詩や文章を競作するとともに批評し合う文人集団を作っていた。「建安の文学」と讃えられる一時代が築かれたのでした。

曹操・曹丕・曹植の親子は、中心的な存在で“3曹”と称されています。また「建安の七子」または「鄴下の七子」と呼ばれる才能の傑出した人々も仲間でした。“建安”、“鄴下”とは、それぞれ、彼らが活躍した時代の年号であり、また曹操が都を置いたところ“鄴(ギョウ)”を表しています。

以前の詩文は、主に集団で歌う仕事歌や芸能歌謡など集団の連帯感を確認するものであった。作者の人生、境遇が歌い込込まれるようことはあまりなかったようです。

建安の頃には次第に私的な体験を詠む詩が現れてきていた。詩作の視点が集団から個へと向かってきたのです。このことはまた、作者の個性や適性が認められるようになったということでもあります。

詩の内容ばかりでなく、形式も確立されていきます。漢詩の歴史はこの時代に始まるといわれるほどであり、上に挙げた詩のような“五言詩”が主要な詩型として定着していきます。「これぞ漢詩!」という基本型が確立されたわけです。

このような詩の変革・確立には曹植の功績が非常に大きかったとされています。南朝時代(420~589)には、「曹植は、倫理、道徳の世界における孔子に匹敵する、偉大な詩人」と絶賛された と。また唐の杜甫が現れるまでは、曹植は中国で最高の詩人であると評されていた と。

上に挙げた曹植の詩「吁嗟篇」は、当時の漢詩の内容・形式を知る上で、代表的な詩と言えそうです。また曹植の‘うめき’が聞こえてくるような、“転蓬”の意味合いがひしひしと伝わってくるような詩と言えるでしょうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 閑話休題76 飛蓬 漢詩を詠む... | トップ | 閑話休題78 飛蓬 漢詩を詠む... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

漢詩を読む」カテゴリの最新記事