安史の乱から逃れ、長安を脱出した玄宗一行は、馬嵬(バカイ)で楊貴妃ら楊一族を殺害し、蜀(現四川省成都)へ向かいます。曽て諸葛亮(ショカツリョウ)が石を穿ち飛閣を作ったとされる難所・剣門関を通過、一行、如何ばかりの難儀を強いられたか、想像だにできない。
蜀は、霊山・蛾眉山の麓、四川の一つ岷江の支流錦水のほとりにあり、緑豊かな別天地である。しかし一行の意気は沈みがちで、特に玄宗は、貴妃への思慕が尽きない。月光にも心を痛め、鈴の音にも貴妃を偲ぶという毎日夜であった。
玄宗の治世初期の “開元の治(713~741)”にあっては、政治改革が図られ、国内の活性化が進み、長安は世界有数の国際都市となった。文化の面でも大きく発展し、特に“唐詩“の興隆は著しかった。主な唐詩人たちについて振り返り、整理しておきたいと思います。
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<白居易の詩>
第二段 二 長恨歌 (7)
43 黄埃散漫風蕭索、 黄挨(コウアイ)は散漫として風は薫索(ショウサク)、
44 雲棧縈紆登劍閣。 雲桟(ウンサン)縈紆(エイウ)して剣閣を登る。
45 峨嵋山下少行人、 峨嵋山下に行く人少なく、
46 旌旗無光日色薄。 旌旗に光無く日色薄し。
47 蜀江水碧蜀山靑、 蜀江は水碧(ミドリ)にして蜀山青く、
48 聖主朝朝暮暮情。 聖主朝朝(チョウチョウ)暮暮(ボボ)の情。
49 行宮見月傷心色、 行宮(アングウ)に月を見れば傷心の色、
50 夜雨聞鈴斷腸聲。 夜雨に鈴を聞けば断腸の声。
註] 〇蕭索:風が物寂しく吹くさま; 〇雲棧:雲たなびく高所にかかる桟道、
“棧”は切り立った崖に差し渡した通路、蜀の山道に特有; 〇縈紆:まといつく
ように取り巻く; 〇劍閣:大剣山・小剣山に挟まれた長安から蜀へ到る
道の難所; 〇峨嵋山:成都の西南に位置し、蜀を代表する高山; 〇旌旗:
天子の一行のしるしの旗; 〇日色薄:もともと蜀の地は日が射すことが少なく
「蜀犬 日に吠ゆ」とも言われるが、その風土に重ねて玄宗の暗澹たる心情を
あらわす; 〇48句:暗に楚の懐王の故事を響かせる。懐王は夢の中で巫山の
神女と交わり、別れに際して神女は「旦(アシタ)には朝雲と為り、暮れには行雨
(通り雨)と為らん。朝朝暮暮、陽台の下にあり」と告げた(宋玉「高唐の賦」序);
〇行宮:仮の宮殿。49句は、月を見ることによってかって共に見た人の
不在を思い悲傷する; 〇鈴:玄宗の寝所に入る際に鳴らす鈴。50句は、
鈴の音を聞いて楊貴妃の来訪かと思えば、その人は、今は亡いことに気づいて
傷心する、の意。
<現代語訳>
43 黄色い土埃が立ち込め、風はさわさわと寂しげに吹く中、
44 雲まで続く桟道は折り曲がりつつ剣閣山(注:蜀の北門をなす難所)を登ってゆく。
45 蛾嵋山麓の成都には道ゆく人も少なく、
46 天子の御旗は光を失い、陽光も色褪せる。
47 蜀江の水は紺碧で、蜀の山々は青々としている。
48 朝な夕に思慕止まぬ天子のこころ。
49 仮宮にあって月の光を仰いでは心を傷め、
50 夜の雨に駅馬の鈴の音を聞けば、貴妃の訪れが偲ばれて、断腸の思いがする。
[川合康三 編訳 新編『中国名詩選』]
<簡体字およびピンイン>
43 黄埃散漫风萧索 Huáng āi sànmàn fēng xiāosuǒ [入声十薬]
44 云栈萦纡登剑阁 yún zhàn yíng yū dēng jiàngé
45 峨嵋山下少行人 Éméi shān xià shǎo xíngrén
46 旌旗无光日色薄 jīngqí wú guāng rì sè bó
47 蜀江水碧蜀山青 Shǔ jiāng shuǐ bì shǔshān qīng [下平声八庚]
48 聖主朝朝暮暮情 shèng zhǔ zhāo zhāo mù mù qíng
49 行宫见月伤心色 Xínggōng jiàn yuè shāng xīn sè
50 夜雨闻铃断肠声 yè yǔ wén líng duàn cháng shēng
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300年近く続いた唐時代は、便宜的に初唐(618~709)、盛唐(710~765)、中唐(766~835)および晩唐(836~907)に分けて語られます。玄宗の“開元の治”は盛唐に当たる。盛唐時、大先輩詩人には、賀知章(ガチショウ、659~744)、張説(チョウエツ、667~730)および張九齢(チョウキュウレイ、678~740)等挙げることができようか。
次世代の著名な詩人として王維(詩仏、701~761)、李白(詩仙、701~762)および杜甫(詩聖、712~770)が挙げられます。順次、これら3詩人について触れるつもりです。なお遣唐使として唐に渡り、玄宗の下で活躍した阿倍仲麻呂(698~770)は同時代の人である。
王維の詩は、過去に本稿別シリーズで数回(末尾[追記]参照)取りあげており、その都度詩人・王維についても断片的に触れてきました。ここで整理しておきます。王維は15歳のころ長安に遊学、その美貌に加え、詩、画、書、音楽等の多才ぶりを発揮、王族や貴顕から厚く遇され、盛名を馳せていた。
719年進士に及第し、大楽丞になるが、翌年微罪を得て左遷され、必ずしも幸運な滑り出しではなかった。726年頃官をやめて長安に帰る。731年、結婚2年の妻を亡くし、以後独身を通した。その頃、終南山の輞川(モウセン)に別荘を構えて、隠棲する。程なく多くの士人の推薦により、中央に復帰、734年宰相・張九齢の抜擢により、右拾遺に就任する。
官途に就きつつ、折を見て輞川に籠り、あるいは輞川に仲間と集い、詩作を楽しむという半官半隠の生活を送っている。王維の詩の本文は自然の美を詠う自然詩であり、輞川別荘の周りの自然を詠った優れた詩が多い。母が敬虔な仏教信者で、その影響を強く受け、高潔清雅な詩風から“詩仏”と称されている。
画の面では水墨画に優れ、その筆致は「天機」によるもので、学んで及ぶものではないと評価されるほどであり、後に南宗画(南画、文人画)の祖とされている。蘇軾は、王維の作品について、「詩中に画あり、画中に詩あり」と評している。
安史の乱では、逃げ遅れて安禄山の軍に捕らわれ洛陽に移されて、安禄山政権に強要され、仕えた。洛陽が唐軍に奪還された際に帰順するが、政権を継いでいた粛宗に、安禄山に仕えたことが厳しく問われた。しかし弟・王縉(シン)らの取りなしと、洛陽にいた折の詩の内容が吟味され、降格だけで許された。以後粛宗、代宗の代に累進を重ねていく。
[句題和歌]: 長恨歌の<49句> “行宮見月傷心色”に想いを得た、前大僧正慈円(1155~1225)の歌を紹介します(千人万首、asahi-net.or.jp に拠る)。慈円は、関白忠通の子、九条兼実の弟。百人一首95番の作者(追記ご参照)である。
いかにせん 慰むやとて 見る月の
やがて涙に くもるべしやは (慈円『拾玉集』)
[大意:どうしたものか、自らを慰めようと思い、月を見るのであるが、やがて
涙で曇ってしまうのではなかろうか]
[追記] 王維の紹介済み漢詩:「送刘司直赴安西」(閑話休題35、投稿170411、以下同)、「入山寄城中故人」(51、170925; 52、171005)、「田園楽七首 其六」(63、180112)、「送秘書晁監日本国」(120、191008); 慈円:百人一首95番(153、200703)。
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