雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

桜田門外の変(1)

2010-10-16 20:41:31 | つれづれに……
井伊家では、
以前より水戸浪士などに不穏な動きがあることを察知していたが、
大老井伊直弼は、護衛の強化は、
勅許を得ないで外国との条約を締結したことへの非難や
安政の大獄における徹底した弾圧など
失政のそしりに動揺したとの批判を招くと判断し、
あえて護衛を強化しなかった、といわれている。

 しかし、彦根井伊家18代当主・井伊直岳(なおたけ)氏は
水戸徳川家15代当主・徳川斉正(なりまさ)氏との対談の中で
次のように述べている(歴史街道・11月号)。

 「事変の当日、直弼公は襲撃の動きがあることをつかんでいましたが、
 あえて行列の供廻(ともまわ)りを増やしていません。
 大老の立場で、幕府の定めた人数のルールを破るわけにはいかなかった。
 気真面目ともいえますが、ある種の覚悟がなければできないことでした」と。

   かくして江戸城桜田門にほど近い彦根藩邸の
  俗に「赤門」と言われるひときわ大きな門扉が重々しく開き、
  大老・井伊直弼以下20数名の徒士(かち)とおよそ40名の足軽などに守られた
  登城の行列が動き出す。

  徳川幕府の瓦解の歯車が、
  明治という時代に向けて
  回り始めた瞬間である。


        2009年は水戸藩開藩400年の年であり、
        茨城県では、この記念すべき年のイベ
        ントとして吉村昭原作の「桜田門外の変」
        を映画化することを計画しました。
        映画は本日公開です。
        
        今年は「桜田門外の変」が起きた年(1860年)
        から150年目にあたります。
        この事変に加わった水戸浪士17名と1名の薩摩藩士
        がなぜ命をかけて井伊大老の暗殺を企てたのか。

        この事件を契機に日本は幕末という時代背景を舞台に、
        当時の水戸藩が先駆けとして示した水戸学を基本にした
        「幕政改革」の狼煙(のろし)が、やがて倒幕運動に発展
        し、日本に大きな転機をもたらしました。

        守るべきものは
        命をかけて守る姿勢を貫いた
        武士の生き方が
        浮かんできます。
              
                     (つづく)

 

  
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