ど派手な成人式
これでいいのか 寛容すぎないか
各地で行われた成人式。
門出ともいえる式典を、粛々と開催した自治体もあり、
創意工夫の跡が見られ、好感の持てる映像を流したテレビメディアもあった。
特に報道にあったような親から成人した子へのメッセージを壇上で読み上げ、
参加している子供に感動を与える自治体の成人式は、好ましく思われた。
一方、沖縄や北九州における成人式のように、ど派手な成人式も相変わらず後を絶たない。
数年前までは、こうした成人式の在り方をどちらかというと、
批判的にとらえた報道が多かったが、
ここ数年、批判的な報道が減少し、
「こんな成人式もありますよ」的な報道が目立つようになった。
市長さんや市会議員の皆さんが、形式的な祝辞を述べる成人式は
参加者を飽きさせてしまうから、それを聴く成人の方もうわの空で、私語か多くなってしまう。
あてがいぶちの成人式ではなく、自分たちの成人式をどのように開催したら、
門出の成人式が意味のあるものになるのか、考えなければならないだろう。
どんな成人式を開催したいのか、
主催者だけの判断では参加者の心を捉えきれないところまで、
世代間の溝は深くなっているのだろう。
参加者としての新成人にも、自分たちの「成人式」という自覚と責任感を持って臨んでほしい。
「成人式を終われば、みんな普通の人に戻るんです」
ど派手な成人式を行う町で拾った声です。
「この日のために、コツコツと貸衣装代を溜めて、一生に一度思い出に残る馬鹿騒ぎをしたいのです」
「地域の伝統だから……」
「とにかく、大勢が集まるなかで目立ちたい」
地域の伝統、仲間意識、門出の記念に等々の意見が多く見られた。
こんなことが、「ど派手な成人式」として認知されるなら、
誕生祝いも、入学式や卒業式もみんな門出の記念なのだから、
ど派手に関係のない他者に眉をひそめられるような門出の式を行えばいい。
社会全体の雰囲気が、多少不愉快なことがあっても、
目をつぶって暗黙の裡に認めてしまう。
寛容すぎはしないか。
「認められないものは、認めない」という姿勢が弱まっているような気がして不安です。
派手な衣装で着飾るのも否定はしません。
でも、落ち着いたスーツ姿もなかなかいいものだと思います。
ちなみに、私の成人式は、貧乏学生でスーツも買えないし、
故郷にいる老いた母にスーツ代をせがむのも忍びなく、
その日は、故郷の成人式を思いながらの少し寂しい成人式だったが、
当時発刊されたばかりの「ヘミングウェイ全集」の第一巻を記念に購入しました。
今では、色あせた本が、若かった頃の私を投影して
書棚の奥でひっそりと時を刻んでいます。
寛容すぎる社会は、やがて成長を減速し、
住みずらい社会の到来のきっかけとなるでしょう。
そうならないように未来社会に向けての責任と努力を
一人ひとりが持つことが肝要なのではないでしょうか。
(つれづれ日記№69)
(2017.01.16記)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます