「麒麟が来る」 光秀が見た夢
④ 三年後 光秀に夢を託して
(前回まで) 「信長、本能寺で討たれる」の報を見て、秀吉は3万の兵を率いて、230キロの道のりを
引き返す(中国大返し)。京都・山崎で激突。光秀は少数の兵と近江へ向かう途中、落ち武者
狩りに遭い落命。光秀、54歳。
だが、大河ドラマ「麒麟が来る」は、ここで終わらなかった。
本能寺の変から3年後、駒は備後鞆の浦に将軍足利義昭をたずねる。
「好きではなかったが信長も、そして光秀も志のあった武将であった」と3年前を振り返る義昭に、
駒は「ご存じでございましょうか?十兵衛様が生きておいでになるという噂があるのを。
私も聞いて驚いたのですが、実は密かに丹波の山奥に潜み、
いつかまた立ち上がる日に備えておいでだというのです」と。
ドラマ最終回は意外な展開を見せ幕を閉じようとしている。
駒は市場の雑踏の中にある侍の姿を見掛け追いかける。
「十兵衛様!」
駒は人混みを縫うようにして侍の後ろ姿を追いかける。
画面は変わってラストシーン。
その侍は馬を駆って 地平線に消えていった。
どうしてこんな終わり方を演出したのだろう。
簡単に言ってしまえば、
1年間楽しみに見て来たドラマの最後が「山城の戦い」で落ち武者狩りに遭い、
名もない土民に竹槍に刺され落命した場面で幕を閉じるようなシーンで終わってしまえば、
後味の悪い結末を私たちは見せつけられてしまう。
こんな結末を見るために日曜日の夜8時を楽しみにしてきたのにと、
何となく裏切られたような気になってしまう。
しかも、「麒麟が来る」というタイトルにも背くことになってしまう。
せっかく新しい視点で1年間描いてきた結末が、
光秀が見た夢は露と消え、
麒麟は来なかったでは視聴者は納得しないだろうと製作者は考える。
信長が討たれ、光秀も夢半ばで倒れてしまったけれど、いつの日かまた光秀が現れ、
麒麟が現れる平和な世がくることを念じてドラマは終わる。
歴史的事実はどうあれ、私は安堵して最終回を見ることができた。
ラストの受け止め方は人それぞれでいいのではないか…
駒の視点で考えてみよう。
「十兵衛様!」と背中に向かっての呼びかけに、
十兵衛(光秀)によく似た侍は雑踏にまぎれて駒の視界から消える。
「あれは幻だったのか、
いや馬に乗りわたくしの手の届かない地平に駆けていった侍は確かに十兵衛様だ。
十兵衛様は生きている」
いつかまたあのお方が帰ってきて、この乱世は終焉し、
麒麟が現れる平和な世の中が実現するのだ。
十兵衛に託した駒の切ない願いが、
幻でなはく現実を駆け抜けていく十兵衛の姿を見させたのかもしれない。
長いコロナ禍のもと、経済も私たちの生活も大きな犠牲を強いられてきた。
この先私たちはどこへ流れていき、どこへたどり着くのか誰にもわからない。
たどり着いたところに安心して生きられる社会はあるのだろうか。
十兵衛が望んで果たせなかった新しい世に、
きっと麒麟が現れる社会の実現があるのでしょう。
それは、十兵衛一人の活躍ではなく、
十兵衛の再来を望んだ私たち一人ひとりが新しい世の出現を望み、
活躍して実現に汗を流した証であってほしいと思う。
(おわり)
連載二回ぐらいで終了する予定でしたが、話が脱線したりしてなかなか最後
の章にに達することができませんでした。まだまだ書き足りないことが沢山あ
り、それを全部書くとどんどん視点がぼやけ、内容が散漫になってきます。
新資料の発見により、光秀は本能寺で陣頭指揮をとらなかったのではないか
という解釈がなされています。このことには少し触れたい思いもします。
章を改めて紹介したいと思います。
ありがとうございました。
(昨日の風 今日の風№120) (2021.3.1記)
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