読書案内「富岡日記」 和田 英著 ちくま文庫
2014年 初版(中公文庫版『富岡日記』(1978年)を底本にしている)
著者・和田英が 1873(明治6)年4月から翌74年(明治7) 年まで富岡製糸場で伝習工女として働いた時のことを思い返し、1907(明治40)年に記述したものである。
明治政府は、西欧諸国に追いつけ追い越せを政策の方針として、
『富国強兵 殖産興業』を具体的な旗印として掲げた。
外貨獲得の一環として、群馬県富岡に作られたのが官営富岡製糸場だった。
当時としては、世界一の設備を備えた工場だったという。
しかし、「西洋人は若い女の生き血を呑む」と妙なうわさが流れ、
人が集まらなかった。
十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供でも上るように思いまして、一人も応じる人はありません。(略)やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして……
そこで集められたのが、著者のような旧藩士の娘や、名のある家の娘たちでした。
彼女たちは、
「お国のためにつくすように」「郷里の誉れとなるよう」、
親、兄弟親族などの期待を背負って近代工業の粋を集めた製糸場で
1年間の技術習得に励む。
その一途な姿に、明治政府の国策を担い、
やがては伝習工女(指導者兼技術者)として、郷里に戻り、
製糸工業の技術者として郷里のリーダーとなるべく
夢を抱いて働く姿が生き生きと綴られています。
それは単に、お金を稼ぐという意味にも増して、
「技術」を習得し、地域の生糸産業工場のリーダーとして羽ばたく
明るい未来を想像させるような彼女たちの姿でした。
富岡製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思いますほど驚きました。生まれまして煉瓦造りの建物など稀に錦絵くらいで見るばかり、それを目前に見ますることでありますから無理もなきことと存じます。
富岡日記の一節であるが、
田舎から出てきた少女が目にしたレンガ造りの建物が
いかに素晴らしいものとして少女たちの目に映ったかが想像されます。
筆者のようなたくさんの少女達が、
熟練工となって、日本の製糸業の隆盛をささえたのだと気づかされました。
1863(明治6)年、官営製糸場で伝習工女として、
技術習得した彼女たちは、
故郷長野に帰り日本初の民営器械化製紙場(六工社)の指導員となつた。
しかし、富岡製糸場とは異なり、
前近代的設備とすべての面での経験不足の中で、
懸命に近代製糸業を支えようと努力する姿が生き生きと描かれている。
この記録は、
近代殖産興業を支えた女性の社会参加を克明に描いた
貴重なドキュメントと言えるだろう。
映画にもなり、「あゝ野麦峠」で描かれたような悲惨な女性労働の実態が浮き彫りに浮き彫りにされるのはもう少し後のことになります。
世界遺産に登録された「富岡製糸場」について興味のある方は、
以下の私のブログを読んでいただけると幸いに思います。
2014.7.27 世界文化遺産・富岡製糸場 日本近代の光と影①
2014.7.29 世界文化遺産・富岡製糸場 日本近代の光と影② 「あゝ野麦峠」
(2017.9.23記) (読書案内№109)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます