逝きて還らぬ人を詠う ⑥ 本当は誰かの胸で泣きじゃくり……
『大切な人が逝ってしまう。 |
〇 次々に録画されゆく番組は昨日逝きし妻の予約なり
…… 神蔵 勇 朝日歌壇 2020.9.27
人の命は「今日一日」が何事もなく、過ぎてくれればそれでよしとしなければならない。
その上で、一つぐらいほっこりするようなことに巡り会うことができたら、「幸せ」と
思えれば、今日一日を生きられたことに感謝することができる。
いまの一瞬を生きることができれば、
「明日世界が滅亡することを知っていても、今日私はリンゴの木を植える」
と言った偉人は誰だったか。
決然と生きる覚悟がうかがえる。
今日生きることができても、明日どう生きられるかは誰にもわからない。
神蔵さんの句は、そのような一面を捉えている。おそらくは突然に逝ってしまった愛しい妻への
鎮魂歌なのでしょう。故人が愛用した帽子を見ても、玄関に残されたお気に入りの靴をみても、
愛しい妻の在りし日の姿を追い求めている自分がいる。
おそらく故人は連ドラの録画予約をしておいたのでしよう。この故人の行為が、突然の死を読者に連想させ、
残された者の悲しみが、読者に伝わってきます。
〇 コロナ禍の世をコロナにも侵されず妻は己れが癌細胞に逝く
…… (豊中市) 山本 孟 朝日歌壇 2020-8-09
丈夫だった妻が癌に冒され逝ってしまった。元気だった妻を思うとき、
「あんなに元気だった」妻の命を襲った癌細胞の非情さを、日々思うわが身を寂寥感が被っています。
〇 お別れが悲しいのではないちゃんと愛されなかったことが悲しい
…… (東京都) 上田結香 朝日歌壇 2020-07-05
作者の人生にどのようなドラマがあったのか。
「愛されなかったことが悲しい」と誰にも言えない胸のうちの煩悶を、自分にささやいてみる。
最後のお別れの悲しみにも増して、「愛されなかった」ことへの悲しみが、胸のうちに広がって行く。
もの言わぬ個人を前にして、無言のサヨウナラをつぶやく………
〇 本当は誰かの胸で泣きじゃくり弱虫さらけ出せばあきらめつくかも
…… (三鷹市) 山室咲子 朝日歌壇 2020-07-05
「本当は」というところに、作者の理性と自制心を感じます。
でも、かろうじて悲しみを胸のうちにしまい込むよりも、理性と自制心をかなぐり捨てて幼児のように
声をあげて暖かくてやさしい胸のうちに飛び込めたらどんなに楽になれるだろうと
わかっているのにそれができない自分がいる。
「逝きて還らぬ人」の項目で取り上げたが、長い人生のどこかで、
行き詰まりの土壇場に立たされ次の一歩が踏み出せなくて逡巡するときが一つや二つ誰にもある。
試練を乗り越えて人は強くなっていく。
(人生を謳う) (2021.01.15記)
誰かが、布団の上に覆い被さった感覚がして、、
目が覚めて、布団の上を見たけど誰も居なくて。
私は施設に、入って居る母に何かあったのか?
と思って居ます。母はもう高齢で87歳に成ります
から・・・・。
しかし私を縁切りした姉は、いまだに何処の
施設に居るか教えてはくれません。
私が精神障害者だと言う事で縁切りです。
よしんば、私が死んでも何もしないだろう
と思います。私は今はケア・マネージャーが付いて
居るので。私が死んだら、葬式無しでお寺に
行ってくれれば良いと思っています。
私は忌み嫌われた者です・・・・・。
私は自分の事を東京のロマだと思って居ます。
最近、私は心がとても痛いです・・・・・。
私は親族から愛されては居ません。
そして、今年の6月頃には持ち金が無く
なるので、生活保護の申請に行きますが、
果たして受け付けてくれるかどうか・・・・。
生活保護は厳しいですから・・・・・・。
何か書いてしまったけど、、
私が死んだら周りは事務的に処理をして
それでお終いでしょうね。侘しいですけどね。
統合失調症などに掛かる様なバカは、、
世の中からは抹消されますから・・・・・。
私は独り身ですし、それで良いと思っていますよ。
なんか書いて仕舞いました。。。
処で、今、私のblogでは青木志貴ちゃんの
事を書いて居ます。私は彼女のファンですし、、
彼女は昨日で32歳の誕生日でした、、
よかったらまだ読んで居なかったら。
読んでやって下さい。宜しく・・・。
また来ます。。。( ◠‿◠ )
今日のkiyasumeさんのコメントは、
気分的に落ち込んでいるような寂しさを感じます。
家庭的にも恵まれなかったkiyasumeさんの孤独が響いてきます。
きっと、自分ではどうにもならない生活環境に苛立ち、生活費の切れる6月を目前に心がいら立っているのかもしれませんね。
その苛立ちを自分や人に向けるのではなく、
今日を生きる自分に向けるやさしい試練と受け止めることができれば、気持ちが少し軽くなると思うのですが………。
どうぞご自愛ください。
ひとりになって一番さみしいのは
嬉しいこと悲しいことがあった時
思いっきり胸に飛び込む人がいないことです
日々写真に語り掛けますが一方通行
むなしいですが・・・・・
嬉しいことがあったときも、悲しい時があったときも祈る、語りかける。
私は、写真に語りかけることはちょつと辛くて、
感情が高ぶってきてしまうので、できません。
朝起きるとすぐに、一つまみの香を焚き、昼も、夜も香を焚きます。たった一つまみ。「オレは元気だぞ、お前はどうだ」と、自分の心に問いかけて、一方通行の会話ではあるけれど、毎日のけじめとして、行っています。線香を立てることはしません。故人が彼岸の彼方に去ってしまうような気がして、できません。
香を焚くことは、互いの存在を確認する意味で
大切な行為の一つになっています。
朝は、ベットから出ると東の窓からさしてくる朝焼けの優しい光に向かって、一言「元気?」とつぶやきます。二階の寝室の東の窓はカーテンを閉めたことがなく、故人と私が逢うための窓口になっていると思ってます。
いまだに悲しみは深いけれど、人それぞれが、それぞれの方法で、「逝きて還らぬ人」との思いを繋いでいく方法を見つけることが肝要かと思っています。 ご自愛ください……