墜ちたB29 米兵を助けた日本人
⑤ 生きていた米兵と死んだ米兵
当時の茨城新聞(墜落2日後の3/12)の記事には
「醜骸(しゅうがい)ぎまみろ」という見出しで次のように報道されています。
【 撃墜されたB29は赤松の林に囲まれた小高い丘の中に焼けただれて散乱し、
我が猛攻にとどめの一撃をされて大地にたたきつけられたままだ…】
又、現場に駆け付けた二人の警察官の一人五味緑さんの証言。
【墜落現場に戻ると50㍍先で誰かが大声で叫んでいた。
「殴るな!助けるんだ!」という叫び声でした】
もう一人の巡査は次のように証言しています。
【三人のうちの二人は村人たちの助けを得ながら避難所まで歩いていき、
重症の米兵は村人たちに担架で運ばれた。
私は医者を呼ぼうとしたが村に医者はいなかった】
午前4時ごろ、3人の生存兵たちは、
土浦憲兵隊支部から来た5人の憲兵と谷田部警察署長にどこかに拘引されていきました。
米兵がどこに連行され、
どのような扱いを受けたのか、
村人たちとの接触が遮断されたこともありまったく不明であり、
記録も残っていない。
さて、墜落した機体の中に九人の遺体が発見されました。
遺体は消防団員が担架に乗せて運び、
村の共同墓地に埋葬されました。
遺体の捜査、埋葬の指揮を執ったのは谷田部警察署長でした。
米軍の記録によれば、
共同墓地に埋葬された九つの遺体の上に
板橋村の村人たちが木の十字架を立ててあったのを進駐軍によって確認されています。
墜落現場となった板橋村で、
村人たちは丁寧に遺体を埋葬し、
自分の村で戦死した米兵たちに心から哀悼の意を表したのでしょう。
当時の茨城新聞は次のような記事を載せています。
【「憎い野郎どもだが死んだものをそのまま捨てても置かれめえ」と村人はつぶやく。
焼けただれた死体を埋めた村人たちの深い思いやりに
埋められた赤鬼どももさぞや地下で嬉し泣きしていることであろう】
(茨城新聞S20.3.12)
(2018.8.29記) (語り継ぐ戦争の証言№21)
「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。 |
(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます