海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ①
戦後78年が過ぎた。
本土では一般的に、太平洋戦争の終戦記念日は8月15日と言われている。
そのせいかどうか、沖縄の「慰霊祭」の記事は、全国紙を含め、記事の扱いが小さく、関
心の薄さを如実に感じさせる紙面構成である。
沖縄では昨日6月23日を「慰霊の日」とさだめ、太平洋戦争末期の沖縄戦犠牲者を悼む式典が沖縄県糸満市の平和記念公園で開かれた。
日本全土にある米軍基地の70%が沖縄に集中している。
本土決戦を前にして、日本軍は10万人の兵士を沖縄に送った。
小さな島に10万の兵士が送り込まれる。
兵士たちの食料や宿舎はどのように確保されたのか。
不安と混乱の中、不平や不安を口にすれば、
「これは、国策ですぞ!!」
と有無を言わさぬ強引さで本土防衛のための「沖縄決戦」が進められた。
太平洋戦争で唯一、地上戦が展開されたされ、
多くの民間人が戦闘に巻き込まれた。
制海権も制空権も失われ、孤立無援の沖縄。
無数の米戦艦からの艦砲射撃が行われた。
「鉄の雨」とも「鉄の暴風」とも言われた艦砲射撃で多くの沖縄県民が犠牲になった。
お年寄りや子ども、女性を沖縄から本土に8万人、台湾に2万人疎開させることを政府や軍が決めたのは敗戦濃厚になった1944年7月だった。
米軍上陸が迫るなか、この学童疎開船『対馬丸』の計画の隠された目的は、
軍の10万の兵士の食料確保であった。
戦況は切迫し、近海ではすでに多くの船が沈められていた。
1944年8月21日18時35分、対馬丸は、台風接近による激しい風雨のなか、那覇を出港した。
対馬丸の乗客の多くは、日本郵船の貨物船を軍隊輸送船として改装されていた船倉に居住することになった。船倉への出入り口は階段一つと緊急用の縄梯子があるだけの出入り困難な状態であり、後にこの構造が、犠牲者を多くした原因の一つともいわれている。(ウィキペディア参照)
(つづく)
(語り継ぐ戦勝の証言№25) (2023.7.4記)
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