人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

根源的な一なるもの

2024-04-26 09:44:55 | 哲学・思想
私が生きているこの世界は何次元なのか?
三次元?...そう言われているらしいです。
線の世界が一次元で、面の世界は二次元で、この世界は立体をなしているらしいです。
しかし、現実に私はただの一度もそのように感じたことも、考えたこともありません。
そう感じない、思えないのです。(私だけか?)
見てる世界はなるほど立体的に見えます。しかし目をつぶればどう感じるでしょうか?...
ま、これは次元というものを理解する上で考え出されたものなのですね。そういうことらしいことと実際に感じることは別だ、ということなのでしょう?
何が何次元、どっから次元の段階が変わるのかはともかく、多次元構造というものがあることは一応分かります。
段々分化してゆくという考え方。そして、どうも多元化してゆくほど、高い(何が?)段階になってゆくように考えられているようなのです。高次元だとかね。
私には、これがどうも分からないのです。そう感じさせるものの一つとして、多元化する一方で、絶対に分化することの無い、一元というものがあるのではないか?、という感じ方があります。
この一元というのは、一次元、二次元と数えられるものでない、不変、普遍なる一元的なものです。
つまり何次元あっても、この一なるものと切り離されることは無いのです。あらゆる多次元世界に常に一元世界が隠れているのです。すべての次元を包括しているとも、それが貫いているとも言えるでしょう。
そうでなければ、“帰一“とか“合一“、“統一“、といったものは出て来るはずが無いのです。この根源的な一を欠いたら、調和というものはあり得ないでしょう。
そういう世界が何故高い次元などと言えるでしょうか?
私がここに生きている世界が何次元で、それが高いのか低いのかは知りません。
ここから離れて、それを霊界と言おうと、神界と言おうと高きに至ることは無いでしょう!
行ったことの無いの世界のことなど知りません。私は一元と切り離されない現界しか知らないのです。ここから離れたらそれは観念に浮くだけでしょう!
この現実世界は、三次元なのかもしれませんが、ある意味で一元世界とも言えるし、一元と多次元の二相があるという意味で(誰しもが感じてるであろう)、二元世界とも言えるでしょう。
つまりは感じ方は様々なんです。何で三次元だ、などと決めつけられなきゃならないのか?
一つ言えることは、このように根源的一なるものを欠いたらその世界は立ち行かなくということであり、今のこの現実世界の有り様は、その根源的な一なるものに意識が向けられていないということです。
この一元の世界は、断じて線だけの一次元世界である訳が無いのです。
一というのは、数字の始まりであり、最小なのかもしれませんが、すべての数字は一に還元されるものでもあるのですよ!
どうも、足し算とかけ算とが混同されているようなのです。
それだけ、この根源的一なるものは蔑ろにされているということなのでしょう。
だから、我々は、今日、このどうしようもない現実世界を目の前にしているのでしょう!...




コメント (11)
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不可分、不可同、不可逆

2024-04-18 09:47:19 | 哲学・思想
現代日本を代表する神学者、宗教哲学者に故滝沢克己先生という方がおられました。
私は、センテンスの長い文章というのが苦手でして、どうも取っつきにくさを感じてか、あまり先生の著書を読んでなく、詳しいことは分かりませんが、神と人間は「不可分、不可同、不可逆」の関係でなっている、というその思想の基調には実に頷けるものを感じています(長いな!)。
それらは、さらにつづめて、「インマヌエル(神と共にある)」の原事実の関係に結びつくのであると。なるほど!...(滝沢先生と言ったら、インマヌエルの先生なんだ!)
このインマヌエルの関係というのは、私的には神との現臨にある関係のように読めるのです。
いや、そうだ、そうだ、そのとおりではないか!...
不可分...ここ最近ずっと言っていることです。神と自己は切り離すことが出来ない!
しかし、それは“不可同“である。先と矛盾するみたいですが、人間は手放しで、“私は神と一つ、同じである“などと言える訳がありません。
そういう信仰命題みたいなものを信じるのは自由なのでしょうが、現実離れして、観念に浮いてしまうだけでしょう。
マイスター.エックハルトなどの神秘思想家が、“私は神と一つ“などと言い表せるのは、己を無化せしめる、神的なハタラキを受け、通っているからなのですよ。
神の前では人間は無とならざるを得ない。
現実離れとは、現臨離れ、インマヌエルの関係から外れていることを意味しているに他ならないでしょう。
そして、神の方からそのように我々にハタラキかけ、気付き、啓示と言われるようなものを表すこともあるが、思い、為そうとする我々が自らそれを超えて、神と共なる関係を開くことは出来ないのです。これは滝沢先生も説いている、神の道における根本的秩序と言えるでしょう。
神との「分かれない、同じでない、こちらからは超えられない」関係とは、もうとにかく、このように神的な現臨にある、インマヌエルの意識状態にあれば自明に分かることなのです。

滝沢先生と言えば、同じ神学者、宗教哲学者八木誠一先生との長い論争が有名なのですが、八木先生の“創造的空の世界“というのも、又神と人間の原態を言い表しているものでしょう。
その論争というのは、かいつまんで言うとどういうことなのか?...それを知ろうとネットを調べてたら、“ああメンドクサ!“...頭が痛くなりそうで!
神と人間の原事実、原態にあれば、そんなに熱く知性的な方に走らんでも、どうでもよくならないか、と思うのですが...

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内に省みる

2024-04-06 09:18:33 | 哲学・思想
私はいつも宗教やスピの道に取り巻いている、その教師や教理に無批判に迎合し、固定観念に囚われてしまう傾向を嘆かわしく思っています。
そこでどんなに、神や霊的なことについて語られようと、全く霊性の道にはつながらないと言わねばなりません。
教師も信者も多いに反省してもらいたいものです。
その点、哲学の世界、特に宗教哲学では、このような傾向は、哲学的な精神とは相容れない、反するものとして、一笑に付されるように全く問題にされることがありません。
その理由として、しばしば“その心的態度は、内省を欠いている“、とか言われたりしています。
それは又、よく主体的に考察が加えられていない、要するに、自分の頭で考えられていないことのように受け取られているようです。
そうには違いないのでしょうが、この内省、内に省みることですが、その考察の内奥にあるものは、果たして自分で考えられたものなのでしょうか?
これは、内奥を照らす光に与ることに他ならないのではないか?
前々回で取り上げた、“回光返照“という禅の言葉もそこから内省というものに結びつくのは言うまでもありません。
つまり内省とは、思いを超えた光に照らされ、浸ることなのです。又反省というのも、それは幾分外向きに思いを正すという方に傾くものですが、本質的には同じだと思います。
哲学者は、その思考を超えた土台に乗っかりながら、知性的に哲学的な考察を加え、展開してゆくのでしょう。
宗教家などは、より情感的に“信“の世界を説き明かしたりします。そこでは例えば聖書や仏典に書かれているような、直接哲学的なアプローチにはつながらない、寓話、神話的な表現を借りることもあるでしょう。
それはしかし、直ちにそれが真実として信従されてしまうようなものでなく、メタファー(象徴、表徴)言語として表されるもので、根本的なものは、その思考を超えた土台にあることは変わらないはずなのです。
内に省みて、霊的な光、生命に与ることは(何故かあまり言及されないようなのですが、多分当たり前過ぎるからでしょう?)、愛、幸福に与ること!...これに尽きるのです!
このように何故、無批判に他人の言葉に迎合、隷従することが霊性の道を閉ざすものであるか、自明なことではありませんか?!...
霊なるものとは、単なる興味本位に流れ、頭でっかちになるだけの、思念世界を超えたところから開かれるものなのです。
内省を欠いた心的態度は、霊性の道を切り開く上で致命的な欠陥と言わねばなりません。
だから...“反省しろ!“、と言うのです!

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原感覚と言語化

2024-03-29 09:36:21 | 哲学・思想
私がいつも神的な現臨などと言っているものは、始めはそういう表現は無かったのです。
頻繁に使われるようになったのは、このブログを始めてからと言ってもよく、そういう場も無かったから当然のことですね。
このように、私はこの場で随分と拙いながらも言語化を試みて来た訳です。
いやもう...自分で言うのもおかしいですが、おかげで色々理解の幅も広がったし、深まった?(こっちの方は一寸言えないですが)...ある意味で理解が向上したとは言えるかもしれません。
少なくとも、これは体系化なんてものとは程遠いですが、言語化することにより、言葉に表せない、何だか分からない、“ああいうもの“にメハナ“や方向性が与えられたということでしょう?
言うまでもなく、言語化というものは、知的な行為です。言葉、概念というものを借りて、ある程度の理解の筋道というか、論理性にも則る必要もあるでしょう。
勿論これは、読む人間が居るということを想定しているのです。誰が理解するのかは知る由も無いですが!...
世の中では、多く哲学者(批評家という人たちも居るが、正直私は何してる人なのかよく分かりません。ただの読者がそれを気取ったりしてます?)と言われる人たちがこうしたことにパトス(情熱)を注いで来たのです。
私自身が浅学ながら、その読者になったりする訳ですが、その言葉に表せないものをよくぞ言語化されたものか、と感激してしまうことも少なからずあるのです。
よく考えたら、これはその述者と読者の間に共通感覚が存在していなければ、そういう共感は生まれないのですね。
これは感覚的なことであって、しばしば混同されがちな、知識や概念に基づく共通認識といったものとは違うのですよ。(万たる共通認識を得られても、たった一人の共通感覚を共感出来る者には代えることは出来ない!)
ですから我々の精神世界の構造は、言語化される、知的な行為以前のこうした原感覚こそが土台と言えるでしょう。
感性的なものが土台で、知性的なものはその上に築き上げられるのです。
そうでなければ、言葉、観念は宙に浮き、思念世界に現れては消えてゆくだけでしょう。
この意味で、感性と切り離されない知的なアプローチは、精神的な道にあって、有効であるのは言うまでもないし、欠かせないものとも言えるでしょう。
普通に考え、そして感じてみたら分かる!...ただの浮いた言葉だけの、知的アプローチによっては思いを超えた、霊性の世界につながることは不可能なのです!
もし、あなたが言葉の述者、あるいは聞き手、読み手であるとして、そこに何か自分の内部を揺さぶるような言葉が交わされたなら、そこに言葉に言い表せないものが臨んでいるのかもしれません!
そのことを意識してみたら、見えない世界でより深まり、それに言葉が与えられることにより、見える世界に露わになるでしょう!...
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知性、感性、霊性

2024-03-28 10:20:47 | 哲学・思想
私はいつも、思考マインドから離れ、超えなければ神的なものにつながることは出来ないと言っています。
これは、あらゆる宗教、精神的な道で等しく説かれていることと言ってもいいでしょう。又、もっと正確に言えば、神的なものが我々に臨めばそのように導かれるとも言えるのです。
しかし、これについて私は、“思考を無くさなければならない“、とは一度も言ったことは無いつもりです。
第一、何人にも出来ないのではありませんか?...持ち前からあるものを無くすことはバカげてると言う他ありません。
然るに何故、我々の思考、分別知というものは、その神への、霊性の道と言ってもいいものにかく立ちふさがるのでしょうか?...思考、知性的な道を通して、それにつながることは出来ないのでしょうか?
これが古来より哲学の道として知られていたものなのです。哲学とは思考を超え、霊性を開く道なのか?と思われる向きもあるでしょうが、古代ギリシアの、又インドを始め東洋に発祥した哲学をみても、本来はそういうものであることが分かります。
少なくとも私は、それを指向しない哲学など(それはヒマ人の知的遊戯にしか思えず)、全く関心がありません。 
霊性を指向する哲学(この哲学本来の在り方がその界隈では、神秘主義などと曖昧なレッテルを貼られ、傍系、異形のように扱われているのです!)は、それを究明してゆけば、必然的に思考、知性を超える地点に導かれると言ってもいいでしょう。
それは、思考を超えると言っているのだから、勿論知性のみからのアプローチでは、決してたどり着くことは出来ません。それと共に、いやそれ以上にパトス(感情というよりも、感性と言った方がピンと来ます)を必要とするでしょう。というより、そのように精神を促すものがパトスそのものなのではないか?
「私の主要な思想は内部の光明から発する稲妻のように奔湧する。筆をとって書き始めると、激しい勢いで自分が上方に引き上げられ、頭がぐらぐらすることがある」
この霊性を指向してやまない哲学者ベルジャーエフの言葉は、そのパトス性をよく言い表しています。
そして、その思考を超えた地点に立った時、我々の知性というものは、本来感性と分けることが出来ないものであることが示されるでしょう。
知性も感性も霊性に源がある...
霊性に根差したものこそ、本来の精神的な在り方なのではないでしょうか?
そこから知性的な部分ばかりが分離して、抽象論ばかり繰り返して、どこにも落ち着かない論理だけでカタが着いたなどと錯覚している、近代になり特に発達した主流の哲学とされるものこそは、異形と言わねばならないでしょう?
霊性を指向せず、それに根差していない哲学は、全く無機質で、生きた血のパトスが感じられません。又知性を欠いた宗教も感情論に走って盲信、迷信、狂信を生み出します。それも霊性の枯渇が要因になっているのでしょう。
知性は、感性と相まって本来の霊性へと統合されなければならないのです。
これは、知性が暴走している現代の諸相がそのことを浮き彫りにしているでしょう。
しかし一方で私には、その霊なるものの方が我々に露わになって来る、ということも感じずにおれないのですが!...



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