“あなたの宗教は何ですか?“
私は、こう訊かれるたびに、メンドクサイので、“いや、特にありません!“、などと巧みに交わして来たのでした。
何でどっかの特定の宗教に属さないとならないのか?
素晴らしい、惹かれてやまない教えなら、そういうものを超えて関わってもいいではないか?
自力だとか他力だとか、一元だとか二元だとか...そういうのがメンドクサイことだと言うのです。
普通に神を信仰しているというなら、それでもいいです。どの神、何の神?...ああ、だからメンドクサイんだって!...信仰対象としての神は無いというのならそれでもいいです。だけど神社や寺に普通にお参りもするぞ!、悪いか?
そうやって、上手くはぐらかして来たのですが、もうメンドクサくなって来たので、この際ハッキリ言いましょう!
私は、“神の道“にずっと帰依して来たのです。
それは、神道か?...いや、それは何か決まった形を思い描いて尋ねるから、ずっとメンドクサく、はぐらかさないとならなくなるのです。
決まった経典も、教祖も教師も無いのは神道的なところもあるけれど、儀礼とか形式なんてありません。
聖書から外れたら、福音的でなければ真のキリスト教では無い!..ブッダが説いたことの無い仏説から外れると、師子相伝の仏法に則らなければ真の仏教では無い!...そんなことに囚われる必要など全くありません!
真の宗教でなくともわが神の道はある!...何故自分自身と直接関係の無い、一枚でないものに“正しい真理“らしきものを求めなければならないのか?
ではそれは、私自身で考え、信じたものに従えばいいことなんでしょうか?
いや、そんなアテにならないものである訳がありません。
決まってるでしょ、私自身の神に照らされ、従わなければならないのです。いや従うということもホントはありません。それはあまりにも私と一枚のものなのだから!
私は普通に神に祈り、信仰しているとも言えます。だけどそれは信仰対象があるまま、観念的に信じるという在り方は超えられてしまうのです。
観念的に信じるだけなら、それは本当に神を信仰しているのではありません。
信仰は信交、神交なのです!(小池辰雄)
かかる信(神)交であれば、自然に、必然的に神は、私の自己実存と一つのものとならざるを得ません。
要するに、私が信奉する神の道とは、特定の宗教を信じようが信じまいが、神を信じようが信じまいが、誰にとってもの神の道なのです。これが精神の根底に息づいていない人間など居るでしょうか?
その大本が顕わになる道なのです。それが生きたものになるかどうかは信(神)交にかかっていると言えるでしょう。それには一人一人の霊性に意識が向けられなければなりません。
この意味でどうしてもそれは、無宗派、無教会的な性格とならざるを得ないでしょう。
一人一宗こそは誰にとってもの神の道なのです。
そう、私はずっとこの神の道を頂いて来たのです。神直々の道...
その直々の教えのまにまにこうして書いて、否書かされている次第なのです!...
私は、こう訊かれるたびに、メンドクサイので、“いや、特にありません!“、などと巧みに交わして来たのでした。
何でどっかの特定の宗教に属さないとならないのか?
素晴らしい、惹かれてやまない教えなら、そういうものを超えて関わってもいいではないか?
自力だとか他力だとか、一元だとか二元だとか...そういうのがメンドクサイことだと言うのです。
普通に神を信仰しているというなら、それでもいいです。どの神、何の神?...ああ、だからメンドクサイんだって!...信仰対象としての神は無いというのならそれでもいいです。だけど神社や寺に普通にお参りもするぞ!、悪いか?
そうやって、上手くはぐらかして来たのですが、もうメンドクサくなって来たので、この際ハッキリ言いましょう!
私は、“神の道“にずっと帰依して来たのです。
それは、神道か?...いや、それは何か決まった形を思い描いて尋ねるから、ずっとメンドクサく、はぐらかさないとならなくなるのです。
決まった経典も、教祖も教師も無いのは神道的なところもあるけれど、儀礼とか形式なんてありません。
聖書から外れたら、福音的でなければ真のキリスト教では無い!..ブッダが説いたことの無い仏説から外れると、師子相伝の仏法に則らなければ真の仏教では無い!...そんなことに囚われる必要など全くありません!
真の宗教でなくともわが神の道はある!...何故自分自身と直接関係の無い、一枚でないものに“正しい真理“らしきものを求めなければならないのか?
ではそれは、私自身で考え、信じたものに従えばいいことなんでしょうか?
いや、そんなアテにならないものである訳がありません。
決まってるでしょ、私自身の神に照らされ、従わなければならないのです。いや従うということもホントはありません。それはあまりにも私と一枚のものなのだから!
私は普通に神に祈り、信仰しているとも言えます。だけどそれは信仰対象があるまま、観念的に信じるという在り方は超えられてしまうのです。
観念的に信じるだけなら、それは本当に神を信仰しているのではありません。
信仰は信交、神交なのです!(小池辰雄)
かかる信(神)交であれば、自然に、必然的に神は、私の自己実存と一つのものとならざるを得ません。
要するに、私が信奉する神の道とは、特定の宗教を信じようが信じまいが、神を信じようが信じまいが、誰にとってもの神の道なのです。これが精神の根底に息づいていない人間など居るでしょうか?
その大本が顕わになる道なのです。それが生きたものになるかどうかは信(神)交にかかっていると言えるでしょう。それには一人一人の霊性に意識が向けられなければなりません。
この意味でどうしてもそれは、無宗派、無教会的な性格とならざるを得ないでしょう。
一人一宗こそは誰にとってもの神の道なのです。
そう、私はずっとこの神の道を頂いて来たのです。神直々の道...
その直々の教えのまにまにこうして書いて、否書かされている次第なのです!...