人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

わが主の臨み

2022-05-11 09:52:42 | ガイダンス
私は後にも先にも一度だけ、キリスト教で知られる、お説教というか、聖書のお話を聞いている最中に”神に捉えられた“ことがあります。
思考が飛んでしまって、ある種の法悦状態になることをそう言っているのですが、それは、そういう様相を呈する、所謂聖霊体験を謳うような集会においてでは無かったのです。
平成15年秋、東京のキリスト友会(クエーカー)の全国大会で、同会では珍しく聖書の講話が持たれた時のことでした。(かつて、同会はその名の通り、心身が揺さぶられるような聖霊体験を伴うことで知られていましたが、近年は至って静かに“沈黙の礼拝”に落ち着いているのです)
講師は、古い女性会員のTさん。聖書のどこの箇所の話かも、どんな話かも覚えておらず、ただ何の気なしに聞いていたのですが、確か“キリストというのは、二千年前のイエスのことのみを差しているのでなく、一人一人に直接的に、人格的に働いて下さる神の表れである”、という趣旨のことを述べておられていたと思います。
すると、全く思いがけなく涙が止めどなく溢れてくるではありませんか?
講師の言葉に捉えられたのでしょうか? その影響は無いとは言えないでしょう。その響きに感激したのかもしれません。
しかし、私にはその思いを超えた、上よりの力、内在していたものが目覚め、顕わになる感じというものは既に知られていたのです!
しかし、確かにTさんは、人格的ということを言われました。いくつか本も読んでおり、そういう言葉は知っています。
神に人格があるのか、それがどういうことなのか、意味などは知りません。知っても意味など無いでしょう。
このことを通して私に実感されたことは、それまで漠然と神的エネルギー、ハタラキ的なものと感じていた、その現臨感覚というものが、私の実存と切っても切れない、一なるものだ、ということなのでした。
ベルジャーエフが言うように、人格は、正しく実存と結びついているのです。これを客観的に理解したとて何になろう...実存的に理解されるのでなければ...それは実に私自身のまっ中心に関わることなのです。
その時からそれまで、一般的キリスト教では根本的な信仰題目とされていた、二千年前のイエス.キリストが自己に現れたことを信じるという、どうしてもそう感じられないことを無理に信じようとする必要は全く無くなってしまったのでした。
神的なハタラキは、聖書のキリスト像を超えて、無制約的に私の人格に浸透したのです。これは他の何人にあっても同様なはずです。
これは、端的にその関わりがより深化したことを示している、と言ってもいいのです。
私が仮にキリスト教徒だとして、訳あって他宗に改宗したとしましょう。そうなると、私の内なる普遍的キリスト(?)も”主“が入れ替わってしまうのでしょうか?...そんなバカなことは無い!
それは、生ける実存的主よりも、宗派、教理、人間教祖を“主”にしている、もっとも主なるものを差し置き、それらと屈託していることを表していると言う他ありません。
わが主は、私のすべての主に他ならないのです!、どうして他のものに置き換えることが出来ようか!
この頃から、あの思いを超えて臨んでくるものを、”あの御方“、”わが主“と親しく、近しく呼びまつるようになったのです...。
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真の導師

2022-04-03 10:04:10 | ガイダンス
「導師は、外面からは心が内面に向かうように後押しし、内面からは心を真我に引き込み、静かになるように助ける」(ラマナマハルシ)

私は、これまで幾人か自分にとって導師的存在と見てもおかしくない方たちと出会ってきました。
ここで言っている導師というのは、一般にどう捉えられているのかはともかく、ただ追従、盲従し、依存信仰を助長させるような存在でないのは勿論、精神的な道の知識やメソッドを授けてくれる存在でもありません。
導師に本当に相まみえるということは、思われたままの自分の有り様にピリオドが打たれることを意味するのです!
真我というものが何かは分からないが、その出会いにより、少なくとも“今までそう思っていた自分”で無くなるのは確かなことです!
要するに、思われた人生では無くなる...人生最大のエポックに相まみえる、と言ってもいいでしょう。
もし、そういう存在に巡り会えたならば、形の上で離れてしまうようなことがあったとしても、それは、一生心の奥に拭い去れないものが刻印されるはずでしょう。
しかし、私の内面にはそういう存在は、言い方は適切でないですが、根付くことがなかったのです。
さっとドライにその存在、その関係したグループ(前者については忘れ難いものは感じていても、後者については、より一層ドライになれるものですが...)から離れることが出来るのもこの理由からでしょう。(しかし、強いて私に特別な導師的存在として、思い起こされるのは、大調和協会の“命位”様でしょう。“この方は私以上に私のことを分かっておられる”、と感ぜしめられたから...)
私には導師という存在と巡り会うことが無かったのか?...
いいや、”存在無き導師”と出会っているのです!...ラマナマハルシが言うように、導師は肉身を持っているとは限らないのです。私の外にも、中にも居る...
これを多く神的現臨と呼んでいる訳ですが、私の経験でも”存在ある”導師は、これを媒体していると言ってもいいでしょう。その存在と接見したら、そういうものが立ち上って来るはずです。
そして、見えない導師は、全く宗派とか思想を超越しているのです!
私がどこにあろうと、あの御方に相まみえる...だからドライになれる?
ただ、あの御方とより一層ダイレクトに接見する時は、諸々の信仰や思想的な色が付着しない、まっしろな(と言うか、見えないのだが...)有り様となるまでです。
真の導師とは、こういうことを伝えるものでしょう。
いや、伝えようとしているもの自体が、真の導師なのでしょう。
本当に道を求めている者ならば、遅かれ早かれ“見えない出会い“があるのではないでしょうか?...
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自己と見えない導き

2021-09-26 09:38:32 | ガイダンス
自己を導く存在、ガイダンス...
私は例えば、守護霊という存在があって、それがどういうものか、といったような実在論としては、何しろ分からないのであるから、そのまま受け入れることは出来ないですが、そういう何かに導かれているという感覚そのものは否定出来ないものを感じています。
これについて、神に対するものと同様、自分以外の超越的な存在を認めたくない、それに依存したくないという向きもおられるであろうと思います。
それに対する私の観方、感じ方は、やはり神のこととほぼ同じようにならざるを得ません。
ガイダンス、見えない導き(私の場合多くこういう表現を使う)と私の実存は、切り離すことが出来ないのです。
切り離せないということは、よりその"導かれている感じ"を強くもつということであり、これは神と同様、他人行儀な素朴実在論からは導き出されないことなのです。要するに私自身と直結した問題ということに尽きるでしょう。
この意味で、ラマナ.マハルシが言うように、神、導師、真我は同義なのです。
ただ、自分が自分を導くというのは、オカシイから超在したもののように言うまでですが、確かによく引き合いに出されるような、九死に一生を得たようなことも経験したこともありまして、"あれは守護霊のご加護かなあ"、と思ったこともありました。
しかし、これもよく聞く例で、願いごとをしてたら叶えられた、ということはあまりありません。それもそのはず、あまりそういうことをしたことがないから(アフンi)...
どうも叶えてくれそうにないというか、そういう願いごとをするべきでないと思っているのか...しかーし、別の意味では、ずーっと叶えられているとも言えるのです。
これは、祈らずとも内なる願いとしてずっとあるものなのですが...それが、先の"神、導師、自己が不離のもの"、という感じに導かれるということなのですi
これは、愛、平安、幸福に導かれることと言い換えてもいいことなのです。だから、あまり上辺のことには意識が向かわないのでしょう。
私にはずっと見えない導きというのは、こういう側面に働くものだ、という認識があったのです。多分、それ自体が見えない導きに因っているのでしょう(i?)
で、この見えない導きというのは、どういう風に表れるのか、といったら、もうこう言うしかありません。
現実にそう感じさせるものが現臨してくる...
この端緒は、意識を失いそうになる窮地から救われたことに由来しているのでした。
やはり、何かに守られている、導かれているという感じはずっとあるのです。
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神の導きと守り

2021-05-07 12:13:26 | ガイダンス
悟りを目指すにせよ、本心を開くにせよ、本気で精神的道に取り組もうとする者にあっては、不測の事態が起こることもあり得る、ということを頭に入れておいた方がいいでしょう。
よくあるのは、私も先日そうなりかけたのですが、意識が遠退いて、日常の感覚がすっかり薄れてしまうようなことです。
こういうゾーンに入り込んで、中々日常に戻ってこれなくなることは、私自身は一度もありませんが、ある瞑想会で2度ほど直接目撃したことがあります。これは、周囲に人が居たから事なきを得たようでした。
極端な話では、まかり間違えると"マカル"ことだってあるかもしれないのです。
私は、いつも"思考を超える"なんてことを事も無げに言ったりしていますが、それは危険と隣り合わせのことには変わりないでしょう。
そこで、意識が飛びそうになったり、精神がアンバランスになった時の対処法として、よく言われるのは、意識を頭の方じゃなくて、下の方に向け、踏みしめている感覚を意識するなどしたらいいのです。
(もっと根本的な対処法は後に述べるとして)とにかくアブナイと感じたなら、無理にことを進めないことです。
しかし...もし、そこで喩えようのない、愛、幸福感というものを感じたなら...惹かれてやまないもの、どうにも惹き付けられてしまうものを感じてしまうのなら...あなたはそれをアブナイと感じるでしょうか?
そして、私が神の手がかると呼んでいる、"不測の事態"にでもなったなら、おそらくもう手遅れでしょう。
そうなったら、もうすべてをゆだねるしかありません。二度と現世に戻ってこれなくなるかもしれません。もしかして、マカルことも...
これは極端な例だし、私は経験したことないのでこれを書いていられる訳で、多分、無用な心配することもないのでしょう。
どっちみち、神はあなたの悪いようにはさせないと思いますよ。
ということは、どういうことになろうと、そこには愛、平安が感じられることはあっても、あなたにとって不都合なこと、苦しみや恐怖というものは感じられない、ということなのです。
自分の意志に反して、別の意志に支配されてしまうということでもありません。
とはいえ、やっぱりフツーの人間であれば、"それはヤバいことなんでは?"、と思い、感じるであろうことは私だって避けたいですよi、人間なんですから...
そして、今までの経験上、ヤバいことはそうは起きないこともフツーのことでしょう。
しかし、これだけは言えるでしょう。神というか、私の本心的なものも含めた大本の意志というものには、生死を超越したものがある、と...。
私が初めて、思いを超えた事態のことを知らされた時というのは、そりゃもう、意識が飛びそうになり、そのまま無くなってしまうような恐怖に見舞われたのでしたが、これは全く前記したようなことと隣り合わせのものという他ありません。
これは、神的なものが臨んでいるかどうかの違いなのです。
私はその窮地を、ひたすら神に祈り続けることで脱することが出来たと同時に、その現臨に与る道も開かれることになったのでした。
祈りを蔑ろにした精神的道にこそ、危険が待ち受けていると言っていいでしょう。
神は導き手であり、又守り手でもあることをいつも身に覚えています。
そして、人間的観点から言っても、人間を超越した観点から言っても、神は我々を悪いようにはさせないものでしょう...。


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正師とのパーソナルな関係

2021-04-07 05:39:24 | ガイダンス
「言葉の最も厳密な意味で、無師独悟ということはあり得ない」
「正師の発見は、あなたの全身全霊的直感による」
(ダンテス.ダイジ「アメジスト.タブレット.プロローグ」/森北出版刊)

何度も言うように、思われたままの、常にあれやこれやと思い巡らしている人間だけからは、悟りや目覚めに与る道は開かれないのです。
正に、今言ったことがその大きな理由と言えるでしょう。
そのステージにおいては、考えている個人としての自分が居るか、思いを、個を超えたもの(別なる自分?)が顕現しているか、どっちかしか無いのです。
師と呼ばれる存在については、様々な意味合いで語られるものですが、ここではあなたをそのステージに導くもののことを指しているのは言うまでもありません。それを正師と言ってもいいでしょう。
この意味で、例えばある教団の教祖であるとか、信者、宗団意識というか、集団的思念に常に働き、又働きかけられるような存在は、それに相応しいとは言えません。
ただし、自己とその存在との関わりが、直接的な、パーソナル(人格的)なものとなるのであれば別様のものとなるでしょう。
パーソナルな関係とは、顔と顔を真向きに向き合うような、"師が自分か、自分が師か"、区別もつかぬくらい、純一になっているような関わりのことです。(現実には教祖という存在は、常に自分とかけ離れた"壇上の人"なのであるが...)
ということは、悟りや目覚めの契機というのは、常にこのような実存的交わりという状況で生まれるということに他ならないのです。(ここに本当の意味での"師資相伝"というものが行われるのではないか?)
集団的思念に取り巻かれた中では、似て非なる集団的熱狂、あるいは洗脳といったものがもたらされるだけであり、自己がその思念から自由で無ければ、"唯一無二"の正師と合い見えるということもないでしょう。
では、正師とは誰のことでしょう。"あなたを必ず悟らせてあげます"という人ですか? あなたが目指しているという、"最終解脱"にまで導いてくれる人でしょうか?
夢みたいなことにうつつを抜かしてる場合じゃないですよi
その存在に合い見えた瞬間分かるでしょう。そういう迷いの念は瞬く間に吹き飛んでしまうことで...
私には、大調和協会の命位様があるいはそういう存在だったかもしれません。その関わりはパーソナルなものだったと思います。
でも、その交流の中で、思われた自分が木っ端微塵になったことはありませんでした。
しかし、そんな私も全身全霊が揺さぶられて、この自我の塊が脆くも崩れ去ったことがありました。
ついに正師と合い見えたのですi...しかし、その顔を拝することは出来なかった...。その存在は、いや存在とも言えないかもしれない...名付けられないもの故に現臨と言う...
正師は、生身の人間とは限らないのです。これを聞いて、"何で人格との出会い無くして"人格的な関わりなど持てようか?"、と訝る向きもあるでしょう。私はむしろ、かかる"見えざる導師"無くして、生身の導師との人格的交わりも持ち得ないと感じています。(人格的という表現が躓きとなる?...実存的とでも言ったらいいのか、それだと抽象的な感じもする...要するに言葉が見つからないのです)
今日では特定の宗教、スピなどの教えを信奉していなくても覚醒に与るという、無師独悟とも思える例も多く見られますが、その契機には必ずと言っていいほど、かかる"超越的出会い"のことが示されているはずです。
これが蔑ろにされる時、一介の思われた自分がすべての人生の主体者として君臨するという、救い難い事態を招くことになるでしょう。
人間は決して神になることは出来ない...だから人間が人間である限り、見えざる導師~思いを超えたものと共にあることを要するのではないでしょうか? 神になることは出来ないが、神に"ある"ことは出来るのです。
もし、神的なものとの全き合一があるとすれば、それは人間であることが終わることを意味することになるでしょう...。

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