私は後にも先にも一度だけ、キリスト教で知られる、お説教というか、聖書のお話を聞いている最中に”神に捉えられた“ことがあります。
思考が飛んでしまって、ある種の法悦状態になることをそう言っているのですが、それは、そういう様相を呈する、所謂聖霊体験を謳うような集会においてでは無かったのです。
平成15年秋、東京のキリスト友会(クエーカー)の全国大会で、同会では珍しく聖書の講話が持たれた時のことでした。(かつて、同会はその名の通り、心身が揺さぶられるような聖霊体験を伴うことで知られていましたが、近年は至って静かに“沈黙の礼拝”に落ち着いているのです)
講師は、古い女性会員のTさん。聖書のどこの箇所の話かも、どんな話かも覚えておらず、ただ何の気なしに聞いていたのですが、確か“キリストというのは、二千年前のイエスのことのみを差しているのでなく、一人一人に直接的に、人格的に働いて下さる神の表れである”、という趣旨のことを述べておられていたと思います。
すると、全く思いがけなく涙が止めどなく溢れてくるではありませんか?
講師の言葉に捉えられたのでしょうか? その影響は無いとは言えないでしょう。その響きに感激したのかもしれません。
しかし、私にはその思いを超えた、上よりの力、内在していたものが目覚め、顕わになる感じというものは既に知られていたのです!
しかし、確かにTさんは、人格的ということを言われました。いくつか本も読んでおり、そういう言葉は知っています。
神に人格があるのか、それがどういうことなのか、意味などは知りません。知っても意味など無いでしょう。
このことを通して私に実感されたことは、それまで漠然と神的エネルギー、ハタラキ的なものと感じていた、その現臨感覚というものが、私の実存と切っても切れない、一なるものだ、ということなのでした。
ベルジャーエフが言うように、人格は、正しく実存と結びついているのです。これを客観的に理解したとて何になろう...実存的に理解されるのでなければ...それは実に私自身のまっ中心に関わることなのです。
その時からそれまで、一般的キリスト教では根本的な信仰題目とされていた、二千年前のイエス.キリストが自己に現れたことを信じるという、どうしてもそう感じられないことを無理に信じようとする必要は全く無くなってしまったのでした。
神的なハタラキは、聖書のキリスト像を超えて、無制約的に私の人格に浸透したのです。これは他の何人にあっても同様なはずです。
これは、端的にその関わりがより深化したことを示している、と言ってもいいのです。
私が仮にキリスト教徒だとして、訳あって他宗に改宗したとしましょう。そうなると、私の内なる普遍的キリスト(?)も”主“が入れ替わってしまうのでしょうか?...そんなバカなことは無い!
それは、生ける実存的主よりも、宗派、教理、人間教祖を“主”にしている、もっとも主なるものを差し置き、それらと屈託していることを表していると言う他ありません。
わが主は、私のすべての主に他ならないのです!、どうして他のものに置き換えることが出来ようか!
この頃から、あの思いを超えて臨んでくるものを、”あの御方“、”わが主“と親しく、近しく呼びまつるようになったのです...。
思考が飛んでしまって、ある種の法悦状態になることをそう言っているのですが、それは、そういう様相を呈する、所謂聖霊体験を謳うような集会においてでは無かったのです。
平成15年秋、東京のキリスト友会(クエーカー)の全国大会で、同会では珍しく聖書の講話が持たれた時のことでした。(かつて、同会はその名の通り、心身が揺さぶられるような聖霊体験を伴うことで知られていましたが、近年は至って静かに“沈黙の礼拝”に落ち着いているのです)
講師は、古い女性会員のTさん。聖書のどこの箇所の話かも、どんな話かも覚えておらず、ただ何の気なしに聞いていたのですが、確か“キリストというのは、二千年前のイエスのことのみを差しているのでなく、一人一人に直接的に、人格的に働いて下さる神の表れである”、という趣旨のことを述べておられていたと思います。
すると、全く思いがけなく涙が止めどなく溢れてくるではありませんか?
講師の言葉に捉えられたのでしょうか? その影響は無いとは言えないでしょう。その響きに感激したのかもしれません。
しかし、私にはその思いを超えた、上よりの力、内在していたものが目覚め、顕わになる感じというものは既に知られていたのです!
しかし、確かにTさんは、人格的ということを言われました。いくつか本も読んでおり、そういう言葉は知っています。
神に人格があるのか、それがどういうことなのか、意味などは知りません。知っても意味など無いでしょう。
このことを通して私に実感されたことは、それまで漠然と神的エネルギー、ハタラキ的なものと感じていた、その現臨感覚というものが、私の実存と切っても切れない、一なるものだ、ということなのでした。
ベルジャーエフが言うように、人格は、正しく実存と結びついているのです。これを客観的に理解したとて何になろう...実存的に理解されるのでなければ...それは実に私自身のまっ中心に関わることなのです。
その時からそれまで、一般的キリスト教では根本的な信仰題目とされていた、二千年前のイエス.キリストが自己に現れたことを信じるという、どうしてもそう感じられないことを無理に信じようとする必要は全く無くなってしまったのでした。
神的なハタラキは、聖書のキリスト像を超えて、無制約的に私の人格に浸透したのです。これは他の何人にあっても同様なはずです。
これは、端的にその関わりがより深化したことを示している、と言ってもいいのです。
私が仮にキリスト教徒だとして、訳あって他宗に改宗したとしましょう。そうなると、私の内なる普遍的キリスト(?)も”主“が入れ替わってしまうのでしょうか?...そんなバカなことは無い!
それは、生ける実存的主よりも、宗派、教理、人間教祖を“主”にしている、もっとも主なるものを差し置き、それらと屈託していることを表していると言う他ありません。
わが主は、私のすべての主に他ならないのです!、どうして他のものに置き換えることが出来ようか!
この頃から、あの思いを超えて臨んでくるものを、”あの御方“、”わが主“と親しく、近しく呼びまつるようになったのです...。