私は、禅仏教や非二元の道に関わる人たちに時折見られる、“私は元々悟っているんです“、とか“私には煩悩は一切ありません“、といったことをその言葉通りのことを平然と言っている向きに対し、どうしても信用出来出来ないものを感じてしまいます。
分かりきったことを言えば、生まれつきそういう状態になっている人間は居ないし、現実に煩悩の全く無い人間も居ないだろうからです。
こういう人は、自分は個我のレベルを超えてしまっているんだ、ということを言いたいのでしょうが、かえってそこに自我性、我執のようなものを感じてしまうのは私だけでしょうか?
そこには、もっとも重要な、根底的なものが抜け落ちていると感じてなりません。
それは、どうしてそういう状態になったのか?、何がそう導いたのか?、ということです。
この肝心なものを欠いてしまうならば、人間は主我的に、自己中心的にならざるを得なくなるでしょう。
いつも言うように、自分の思い、力を超えたもの無しに、個我的な自分を超えることは出来ないのです。
超越者にあって、それと一つになることに目覚める、という言い方は出来るでしょうが、私が超越する、私が超越者になるということは、顚倒も甚だしいと言わねばならないでしょう。
自分が神になろうとして、自分の思い、力でそうなった人間など居るか?、そういう人間は、ことごとく魔境に落ちているということを知らねばなりません。
何故ならば、超越者に依らねば、自分の諸々の思い、煩悩から離れることは出来ないからです。
自分には煩悩も欲望も無くなった、という思いこそは消えてゆく姿ではないか?
煩悩も欲望もあったっていいではないか?、平々凡々な人間を生きているんだから!
しかし、凡人のままでその自分は開けられている、明け渡されるものがあるのです。
超越者が通る、同時に思いが消えてゆく通路みたいなものがある...それは常に開かれてある!
それは、“私は明け渡すことが出来る“ってことを言っているんじゃないですよ!
だから、明け渡されるものがあってそうなるってことなんです!
だから又、そこには悟った人間も迷った人間も無いってことなんじゃないですか?!
これは、どこまでも私ではなく、あの御方が顕わになり、通られるということを物語っているのでしょう!...
分かりきったことを言えば、生まれつきそういう状態になっている人間は居ないし、現実に煩悩の全く無い人間も居ないだろうからです。
こういう人は、自分は個我のレベルを超えてしまっているんだ、ということを言いたいのでしょうが、かえってそこに自我性、我執のようなものを感じてしまうのは私だけでしょうか?
そこには、もっとも重要な、根底的なものが抜け落ちていると感じてなりません。
それは、どうしてそういう状態になったのか?、何がそう導いたのか?、ということです。
この肝心なものを欠いてしまうならば、人間は主我的に、自己中心的にならざるを得なくなるでしょう。
いつも言うように、自分の思い、力を超えたもの無しに、個我的な自分を超えることは出来ないのです。
超越者にあって、それと一つになることに目覚める、という言い方は出来るでしょうが、私が超越する、私が超越者になるということは、顚倒も甚だしいと言わねばならないでしょう。
自分が神になろうとして、自分の思い、力でそうなった人間など居るか?、そういう人間は、ことごとく魔境に落ちているということを知らねばなりません。
何故ならば、超越者に依らねば、自分の諸々の思い、煩悩から離れることは出来ないからです。
自分には煩悩も欲望も無くなった、という思いこそは消えてゆく姿ではないか?
煩悩も欲望もあったっていいではないか?、平々凡々な人間を生きているんだから!
しかし、凡人のままでその自分は開けられている、明け渡されるものがあるのです。
超越者が通る、同時に思いが消えてゆく通路みたいなものがある...それは常に開かれてある!
それは、“私は明け渡すことが出来る“ってことを言っているんじゃないですよ!
だから、明け渡されるものがあってそうなるってことなんです!
だから又、そこには悟った人間も迷った人間も無いってことなんじゃないですか?!
これは、どこまでも私ではなく、あの御方が顕わになり、通られるということを物語っているのでしょう!...
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