「問題はカソリックでも、プロテスタントでも、幕屋でも宗派の如何を問うところではありません。それぞれの在り方において本当に十字架と聖霊を身体で、全存在で受けているかだけです」(小池辰雄/新宗教改革)
何度も触れているように宗教、精神的な道というもの、特にそこには精神的覚醒、エンライトメント、回心(表現は何であれ)という問題が起こってくる訳ですが、それはこの思われた自分がどうなる、こうなるということではありません。
思われた自分の延長にそういうものが開けてくるのではありません。
今の自分の心掛けを変えてみたり、善行を行い徳を積んでみたり、各種の技法を修めて行ったりして、一歩一歩神に近づくようなことではないのです。
私のようにそういう機根の無い者には、そうしたことをやってみようという気持ちすら起こってきません。
ところが...その得難い契機というのは、こちらの思いを超えたところから忽念と訪れるのです。
思いの奥の意識に聖霊とも言うべきものがハタラき、つながるのです。つながろうとこちらで思わなくとも、何らの努力無しに自ずと全存在がそちらに転ぜられてきます。
小池先生は何度も「十字架と聖霊は切り離すことは出来ない」と述べられていましたが、私にはもう、そういうこと自体が、聖霊なのだと思えてなりません。
聖霊によって思いを超えて恩寵に預かることが出来る。
それは、この思いにガンジガラメになった自我性が突破され、我ならぬ我、キリストにある我、内なる仏性が開かれるということです。
と言っても、自我性は無くなる訳ではなく、その限界を示されないまま、その開かれた神なる王座に就こうとするものです。
思われたままの自分がそのまま真(神)我になるものと錯覚しだすのです。
この倒錯は実に深刻です。神的なものと自己とのつながりは永久に絶たれてしまうかも分かりません。
自我性、思いの突破も内なるキリストにつながるのも聖霊の、十字架のハタラキに依るのです。それは我々が神、キリストと一体ならんがためですi
しかし、神を知らない異邦人の私には、なんとこの十字架というものがずっとつまづきだったことでしょう。
"十字架? それはただのシンボルではないかi 他宗派のことをあげつらって、自分たちこそ偶像崇拝に明け暮れてるではないかi
贖罪の教理? 抽象的な観念信仰などで魂の事態はどうにもならないではないかi"
それが今じゃどうだろう...コミサンの親父、田中種助牧師の集会では狂ったように"ジュウジカ、ジュウジカ"と叫び声が聞こえていたらしいです。
"十字架に砕ける"のだとか...私は何だか奥の方で無条件でアーメンになってしまってるようです。
もはやシンボルでも神学でも信仰でもありませんi キリスト教でも仏教でもノンデュアリティでもありませんi
田中師は語る「十字架に砕けなければ、神の道は開かれない」
然りi アーメンではないかi 十字架...ということで、聖霊の恩寵に預かることの内実を言っているのです。
このことは、精神的目覚めを経験している者は、皆知らされているはずです。神の御前には自分は無である、ということ...そこから無限なるものが開かれるということを...
本当の覚醒、エンライトメントというものとそうでないものがあるのか、どうかは知りません。私はただ、この門を通っていないものには共感出来ませんi
聖霊無しには誰も神とつながることは出来ないのです。
クリスチャンの取り澄まして語る、十字架の、罪の許しの、イエス.オンリーのゴタクほどウザイものはありません。信仰の上に胡座をかいていることはもっとも神の道から遠いものかもしれません。自力の修行者の方がはるかに尊いと思います。
しかし...十字架の砕けの内実はとにかく理屈抜きにアーメンとならざるを得ません。"アーメン、ナーム、オーム(宗派を超えてるという意味?)..."であります。
私が一番キライな宗教はキリスト教、一番惹かれてしまうのはキリストの道かもしれない...。
何度も触れているように宗教、精神的な道というもの、特にそこには精神的覚醒、エンライトメント、回心(表現は何であれ)という問題が起こってくる訳ですが、それはこの思われた自分がどうなる、こうなるということではありません。
思われた自分の延長にそういうものが開けてくるのではありません。
今の自分の心掛けを変えてみたり、善行を行い徳を積んでみたり、各種の技法を修めて行ったりして、一歩一歩神に近づくようなことではないのです。
私のようにそういう機根の無い者には、そうしたことをやってみようという気持ちすら起こってきません。
ところが...その得難い契機というのは、こちらの思いを超えたところから忽念と訪れるのです。
思いの奥の意識に聖霊とも言うべきものがハタラき、つながるのです。つながろうとこちらで思わなくとも、何らの努力無しに自ずと全存在がそちらに転ぜられてきます。
小池先生は何度も「十字架と聖霊は切り離すことは出来ない」と述べられていましたが、私にはもう、そういうこと自体が、聖霊なのだと思えてなりません。
聖霊によって思いを超えて恩寵に預かることが出来る。
それは、この思いにガンジガラメになった自我性が突破され、我ならぬ我、キリストにある我、内なる仏性が開かれるということです。
と言っても、自我性は無くなる訳ではなく、その限界を示されないまま、その開かれた神なる王座に就こうとするものです。
思われたままの自分がそのまま真(神)我になるものと錯覚しだすのです。
この倒錯は実に深刻です。神的なものと自己とのつながりは永久に絶たれてしまうかも分かりません。
自我性、思いの突破も内なるキリストにつながるのも聖霊の、十字架のハタラキに依るのです。それは我々が神、キリストと一体ならんがためですi
しかし、神を知らない異邦人の私には、なんとこの十字架というものがずっとつまづきだったことでしょう。
"十字架? それはただのシンボルではないかi 他宗派のことをあげつらって、自分たちこそ偶像崇拝に明け暮れてるではないかi
贖罪の教理? 抽象的な観念信仰などで魂の事態はどうにもならないではないかi"
それが今じゃどうだろう...コミサンの親父、田中種助牧師の集会では狂ったように"ジュウジカ、ジュウジカ"と叫び声が聞こえていたらしいです。
"十字架に砕ける"のだとか...私は何だか奥の方で無条件でアーメンになってしまってるようです。
もはやシンボルでも神学でも信仰でもありませんi キリスト教でも仏教でもノンデュアリティでもありませんi
田中師は語る「十字架に砕けなければ、神の道は開かれない」
然りi アーメンではないかi 十字架...ということで、聖霊の恩寵に預かることの内実を言っているのです。
このことは、精神的目覚めを経験している者は、皆知らされているはずです。神の御前には自分は無である、ということ...そこから無限なるものが開かれるということを...
本当の覚醒、エンライトメントというものとそうでないものがあるのか、どうかは知りません。私はただ、この門を通っていないものには共感出来ませんi
聖霊無しには誰も神とつながることは出来ないのです。
クリスチャンの取り澄まして語る、十字架の、罪の許しの、イエス.オンリーのゴタクほどウザイものはありません。信仰の上に胡座をかいていることはもっとも神の道から遠いものかもしれません。自力の修行者の方がはるかに尊いと思います。
しかし...十字架の砕けの内実はとにかく理屈抜きにアーメンとならざるを得ません。"アーメン、ナーム、オーム(宗派を超えてるという意味?)..."であります。
私が一番キライな宗教はキリスト教、一番惹かれてしまうのはキリストの道かもしれない...。