人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

十字架と聖霊

2017-12-03 12:40:06 | キリスト教関連
「問題はカソリックでも、プロテスタントでも、幕屋でも宗派の如何を問うところではありません。それぞれの在り方において本当に十字架と聖霊を身体で、全存在で受けているかだけです」(小池辰雄/新宗教改革)

何度も触れているように宗教、精神的な道というもの、特にそこには精神的覚醒、エンライトメント、回心(表現は何であれ)という問題が起こってくる訳ですが、それはこの思われた自分がどうなる、こうなるということではありません。
思われた自分の延長にそういうものが開けてくるのではありません。
今の自分の心掛けを変えてみたり、善行を行い徳を積んでみたり、各種の技法を修めて行ったりして、一歩一歩神に近づくようなことではないのです。
私のようにそういう機根の無い者には、そうしたことをやってみようという気持ちすら起こってきません。
ところが...その得難い契機というのは、こちらの思いを超えたところから忽念と訪れるのです。
思いの奥の意識に聖霊とも言うべきものがハタラき、つながるのです。つながろうとこちらで思わなくとも、何らの努力無しに自ずと全存在がそちらに転ぜられてきます。
小池先生は何度も「十字架と聖霊は切り離すことは出来ない」と述べられていましたが、私にはもう、そういうこと自体が、聖霊なのだと思えてなりません。
聖霊によって思いを超えて恩寵に預かることが出来る。
それは、この思いにガンジガラメになった自我性が突破され、我ならぬ我、キリストにある我、内なる仏性が開かれるということです。
と言っても、自我性は無くなる訳ではなく、その限界を示されないまま、その開かれた神なる王座に就こうとするものです。
思われたままの自分がそのまま真(神)我になるものと錯覚しだすのです。
この倒錯は実に深刻です。神的なものと自己とのつながりは永久に絶たれてしまうかも分かりません。
自我性、思いの突破も内なるキリストにつながるのも聖霊の、十字架のハタラキに依るのです。それは我々が神、キリストと一体ならんがためですi
しかし、神を知らない異邦人の私には、なんとこの十字架というものがずっとつまづきだったことでしょう。
"十字架? それはただのシンボルではないかi 他宗派のことをあげつらって、自分たちこそ偶像崇拝に明け暮れてるではないかi
贖罪の教理? 抽象的な観念信仰などで魂の事態はどうにもならないではないかi"
それが今じゃどうだろう...コミサンの親父、田中種助牧師の集会では狂ったように"ジュウジカ、ジュウジカ"と叫び声が聞こえていたらしいです。
"十字架に砕ける"のだとか...私は何だか奥の方で無条件でアーメンになってしまってるようです。
もはやシンボルでも神学でも信仰でもありませんi キリスト教でも仏教でもノンデュアリティでもありませんi
田中師は語る「十字架に砕けなければ、神の道は開かれない」
然りi アーメンではないかi 十字架...ということで、聖霊の恩寵に預かることの内実を言っているのです。
このことは、精神的目覚めを経験している者は、皆知らされているはずです。神の御前には自分は無である、ということ...そこから無限なるものが開かれるということを...
本当の覚醒、エンライトメントというものとそうでないものがあるのか、どうかは知りません。私はただ、この門を通っていないものには共感出来ませんi
聖霊無しには誰も神とつながることは出来ないのです。
クリスチャンの取り澄まして語る、十字架の、罪の許しの、イエス.オンリーのゴタクほどウザイものはありません。信仰の上に胡座をかいていることはもっとも神の道から遠いものかもしれません。自力の修行者の方がはるかに尊いと思います。
しかし...十字架の砕けの内実はとにかく理屈抜きにアーメンとならざるを得ません。"アーメン、ナーム、オーム(宗派を超えてるという意味?)..."であります。

私が一番キライな宗教はキリスト教、一番惹かれてしまうのはキリストの道かもしれない...。

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聖霊を受けること

2017-12-02 12:28:12 | キリスト教関連
キリスト教には、「聖霊派」とか「ペンテコステ派」などと呼ばれる一群があります。
これは、主としてプロテスタントの中から発展してきたものですが、カソリックでも近年「カリスマ刷新」などとして知られており、無教会派から現れたものでも、私には馴染みのある「原始福音」(手島郁郎創始)や「キリスト召団」(小池辰雄創始)と呼ばれるグループがあるのです。
これらには、その集会の在り方に一様にある特異とも言える、例えば"ドタンバタン"と激しく身体を動かすとか、あるいはぶっ倒れるとか、"ワア、ワア"泣き叫んだり、所謂「異言」が、集まる者の口からほとばしる、といった現象が見られ、他からもそういうイメージで見られているのです。
これについてある人は(私は実際にそういう声を聞きましたが)、「そんなのは、サクラに決まっているじゃないかi」と決めつけた批評をしたりするのですが、それはそうした集会に行ったことも、見たこともない人間の見解と言わねばなりません。
一体いつ、どこであの自然発生としか思えないような、超常識?あるいは非常識?的なパフォーマンスの訓練、練習をやっているのかと、問いたいですi
あるいは「あれは悪霊にたぶらかされているんだi」と見ている者も居るでしょう。私は霊感者でないので分かりませんが、そういうこともあるかもしれません。
しかし、これはすべての道について言えることでしょうが、すべてを一様に片付けてしまうことは出来ないでしょう。
サクラ云々に関して、私は実見してませんが、知人からもある書物からも、ある集会では「ワザとらしいことこの上なかった」という報告もあるのです。
又あまり好ましくない事態に見舞われることも無いとは言えないことでしょう。
何事においても意識の有り様が極めて重要なことで、それ次第で、如何様にも展開されるものでしょう。
実のところ、私自身は、上記したようなイメージで語られる集会に、参じたことはありますが、正直馴染めませんでしたし、その熱烈な波に飲まれて"ワア、ギャア、ポロポロ ..."ということになったことも無かったのです。私は精々"ウー、ウーッ"という程度で済んだ?のです。
一時期、キリスト召団の大阪集会に通っていたことがありますが、ここの代表者U先生って人がもう、全召団きってのそうした方面のパワーに恵まれた人?で、集会では「何をエエカッコ、さらしとんじゃあi」と"ワア、ワア"とパワー全開の有り様を奨励していた(集会員は若い人が多かった)ので、私は随分肩身の狭い思いをさせられたものです。(突然、私が集会に遠ざかってしまったのは、ずっと申し訳なく思ってます)
小池先生は時に"ワア、ワア"を奨励したりもしましたが、"聖霊の受け様はそれぞれである"ことをいつも強調していました。
聖霊を強調する集会に付きまとうイメージにトラワレる必要は無いのです。
私は静かに深ーく浸透してくるハタラキに反応することが多いのです。
最も肝心なことはこっちのパワーがどうのこうの、ココロ、思いがどうのこうのではないi
受けなければなりませんi 受け入れることですi そうでなければ何にもなりませんi
そうでなきゃ、勝手に"ワア、ワア"でも、翻訳不可能な言葉を口走るなり、ヘソを見つめて唸っているなりしてたらいいのですi
又、"聖霊を受けた印として奇跡的なことが起きなければならない"、とするのなら、聖霊を受けることから奇跡信仰、ご利益信仰に変じてしまうでしょう。
聖霊を受けた結果として、そうしたことが起きたのなら受け入れるしかないでしょう。トラワレずに...
トラワレたところから付随的なことが一人歩きし始め、本質的なことからズレてくるのです。
"聖霊か、悪霊か見極めなければならない"ということも一理あることですが、自分で見極めようとしているうちは、聖霊を受ける契機は多分訪れないでしょう。
そうした思いを超えて切り込んでくるのが、聖霊なのだから...
かく言う私は、キリスト者でもなく、聖霊が何かということなど知りません。
ただ、それは私がキリスト教徒だろうと、異教徒だろうと、神を信じようと、信じまいと自分の思い、力を超えて喜ばしいことをもたらすハタラキという他ありません。



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キリスト教の裏側

2017-02-07 16:02:54 | キリスト教関連
ずっとこのブログを読んで頂いている方なら、お分かりのように私は所謂宗教というものがキライなのです。
自分の頭の中で絶対に正しいと思い込んでいる信仰を強要してくる教師、伝道者たち…それに迎合して自ら隷属してしまう信者たち…ここにあるのは、誰の人生であるか、ということが蔑ろにされるばかりの主体性、自己信頼の欠如です…イヤですねえ…ムシズが走ります。
私はそういう世界にとっぷり浸かっていたからこそ、そう感じざるを得ないのです。
とりわけ嫌悪感を催すのは、キリスト教です。宗教のマイナス・イメージのほとんどは、ここから来るといってもいいくらいです。
直接関係の無さそうなカルト宗教でも、随所にその遺伝と思しきものが見え隠れしています。
これこそは形態的にも、精神的にも悪しき分裂を引き起こす分離宗教の典型ではないでしょうか?
しか―し…ご存じのように私の精神的歩みの中で、このキリスト教的なものとの関わりが深かったのも紛れもない事実なのです。
どうしてかと言うと、決まってるでしょ! 惹かれたから…スキだからです。
キリスト教は一番キライで一番スキな宗教なのかも知れません。
かように、私の中でキリスト教的なものを巡って相反する感情が真っ二つに割かれているのです!(分離してます)
手島先生、小池先生、ベルジャーエフ、サンダー・シング、エマーソン…影響を受けたキリスト者は数知れません。
どうして同じキリスト教でスキかキライで別れるのかと言えば、彼らは主流、正統を自認する自称キリスト教から異端視されるなど、傍系に追いやられている、ということで一応の説明は尽きます。彼らはほとんど教会の外に住していたのです。
でも、それだけの理由で理屈抜きに惹かれてしまう訳じゃありません。
私が初めてキリスト教的なものに意識的に触れたのは、原始福音の「生命の光」誌を手に取った時からなのですが、私はどうやらその時、理屈抜きに惹かれてしまうあるものを感受していたようです。表面意識では”どうもアヤシイ宗教のようだ”とか、”キリスト教はどうも偏っているようでイヤだ”といった思いがかすめているのですが、”この何となく畏敬の念をもたせ、ヒタヒタと音も無く迫って来るような感じのものは何なのだろう…”と…どうも何がしかの、その息吹に触れていたようなのでした。
これは修行、メソッド、教えを信じる事、信仰…といったプロセスを通さなくとも直接触れ得るものです。実際私はその雑誌を読んで、それを頭で理解した訳でも無く、理屈抜きに伝わってしまったようなのです。こうした事は、後にそうした集会などを通じて何度もあります。
そしてこの言葉で言い表せない”感じ”のものこそは、しばしば私が上よりの力で捉えられてしまうものとつながるのです。確かに現臨として今日まで身に覚えているものなのです。
私が初めて、強烈にそれに預かったのは、直接そのキリスト教的なものとのつながりは無かったですが、あの”感じ”というものと同質のものと言っていいでしょう。これはキリスト教的に言えば聖霊と言っていいのかもしれません。
でも、それは本来色も形も無く、何教と限定されるようなものでもありません。
しかし、この霊なるハタラキは表側のキリスト教とは別の裏側の霊統を通して伝えられてきたということは言えるでしょう。
そういうものは勿論他宗教にも伝わっているものですが、よりディナミス(力)を感じさせます。(この事がしばしば変質して狂信性を生み出す要因ともなったようです)
それは本来、修行も信仰も介さない直接的な聖霊の事態です。だからこそ私は理屈抜きに捉えられてしまうのでしょう。
その媒体となった者の多くは神秘主義者、神秘主義運動(個人を超えて集団に霊なるものが働くケース)などと呼ばれてきました。どうして多くがキリスト教的なものを通して伝えられたのかはよく分かりません。(他の例ではユダヤ教のハシディズムなどがあります)
この霊なるハタラキは、純粋に何の相対的な色が付着されることなく、伝わってこそ普遍性へと開かれ、自己の深みにも浸透していくものです。
このもの自体は相対的宗教を超えており、一つの宗教によって独占されるべきものでもないでしょう。”全てのものを照らす真の光(ヨハネ伝)”です。
キリスト教は、諸々の不調和、相克をもたらし宗教の和合ならぬ分離に加担してきました。
ベルジャーエフが言うように歴史的キリスト教は既に役目を終えてしまったようです。否、キリスト教が主導した宗教そのものがもう死に絶えてしまったのかもしれません。
宗派的キリスト教の諸々の夾雑物は取り払われ、その裏側で息づいてきた霊なるハタラキが顕わになることでしょう。
それと共に宗派的な、相対的に分離したあらゆる宗教も終わり、普遍に開かれた宗教的なものが開かれることでしょう…。










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全心、全霊を尽くして…

2016-12-13 17:15:10 | キリスト教関連
昭和53年からの二年ばかしの間のことが今日の契機において、果たしてあの時のような目まぐるしい、昂揚に満ちた数々の事象として展開するだろうか?…と考えるに今の私にはとても想像することが出来ません!
あれらの事はあの時、あの時の私においてだからこそ起きた事と言わざるを得ません。
この間、私の内には上っ調子な移り気とない交ぜになって、ある抑え難い希求が有りました。また同時に抗し難い促しをも受けていたのです!
”自分が一体何処へ向かおうとしているのか、どこに導かれようとしているのかは分からない…ただ自分の意志だか何ものかの意志だか、心根を突き動かすものに従うのみ…”というような思いが心部に横たわっていたのです。
その促しがより顕著になった昭和54年春、道院に定期的に通うようになって間もない頃、およそ10か月ぶりに原始福音の機関誌「生命の光」に巡り合いました。
ここに載せられていた手島郁郎先生の聖書講話は、その数あるものの中で特に印象に残っています。それは1959年12月の「詩篇第九篇」の講話で、先生の「詩篇講話」第一巻(キリスト聖書塾刊)に収録されているものです。
先生はそこで「全心、全霊、全力を尽くして、主なる汝の神を愛せよ!」というマタイ伝の聖句を引き、ある弟子とのやりとりを取り上げ、「あなたの信仰は二心だ。いつも上手に使い分ける。二つあったら、二つとも神に投げかけて信頼しようとしない。中途半端はやめなさい!」と語られるのですが、まるでその言葉は、私自身に向けられているように迫ってきました。
信仰云々という事はともかく、私の心はあの宗教やこの道やで分裂していて、いかにも中途半端ではないか!…チッポケな頭の尺度に合うものだけで真とか正しいとか判断しているばかりで、ひたぶるに全心、全霊を以て踏み込み、投げ出すことが出来ない…だが、さりとて中々そんな心境にはなれない…こういう煩悶が初めて起きてきたのですが、心のどこかにこの主一無適な道心が根付いているからこそでしょう。これが意識の内から表出されたのです。
けれど、テンデバラバラな心をどうやって統一など出来るでしょうか?
全身、全心、全霊…そうなろう、と一生懸命努めようとするのは部分的意念、信念ではないでしょうか? ”ついに私は捉えたこれが究極の真理…”といったものは大方はそう思えた、信じたものをその部分的信念に取り込んだ、というに過ぎないのではないでしょうか?
これは全一的なもの御自体に捉われなければそうならないのです!
私はこの数年後、この事を全心全霊で示されたのですが、この時そのことを予感させるものに意識が捉えられたのです。
そして、こんな思いが強く脳裏に過りました。
”私の魂は、この全人格、全人生を揺さぶるようなものに出くわさないことには、絶対に充足することも無く、平安に憩うことも無いだろう…”
世の中には宗教的遍歴者、最近ではスピリチュアル・ジプシーと呼ばれる人たちが居ます。
私自身もそういう人間に見られたりもしたのですが、彼らは自らの魂の結節点というものを見出したのでしょうか?(そうであったらそう呼ばれなくなるでしょうか?)そもそも、そういうものを求めているのだろうか?…それとも彼らはずっとどこに導かれるでも無く、ある道からある道へと渡り歩くこと、遍歴すること自体に意味、楽しみを見出しているのだろうか?…(どう歩もうが自由ではありますが…)当時の私はどっちに転ぶか分からない状態にあったのは確かな事でしたが、このように道を歩むということは、道楽じゃない、全人格に関わるものである、というある指針が与えられたのです。
この事から又数日後、小池辰雄先生との出会いに導かれることになったのです。
このような事は既に、私にあの導きというものを身に覚えていたからこそだった、と思います。
それでも私は直ちに手島先生、小池先生との機縁から原始のキリストへの道には踏み出すことはありませんでした。
結果的にこの世のどんな宗教にも道にも無く、又それらに、誰の魂にも息づいている、あの見えざる道にしか、この頑で、迷った魂は砕かれることは無かったのです。
しかし、その契機はこの機縁から私の意識に根付き、息付いたのは確かな事です…。








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第三のアダム

2015-10-18 17:29:17 | キリスト教関連
釈迦やイエスが如何に偉大な聖者であったにせよ、自分自身をどっかに置いて崇め奉っていてもしょうがないですね。
この世の自称覚者にしろ、生き仏にしろ生まれつき悟った人など居ないのです。
どんな人でもある気付きというものが契機になって、悟ったようなことを言い出したのです。
如何に人間離れしたことを語っていようと、皆人間だった…
覚者や教師らの上からのお話を鵜呑みにする前に、こういう当たり前のことは認識しておく必要が有りますね。
そして最も肝心なことは、語られること、学ぶことは、他ならぬ今のあなた自身にとっての問題であるということです。
二元性の終わりとか探究の終わりだとかいう事でも、それはアカの他人がどうこういう事でなく、それを判断し、決めるのはあなた自身であるのは言うまでもありません。
この気付きということですが、これは”自分は気付いていないんだ、何も知ってなど居ないんだ”ということに気付くことなしに、そういう事は起きませんね。そしてそこには自分を超えた気付かせてくれるものがあった。
つまり二元性というものはどうしても必要なのです。これを誤魔化して分かったつもりになることの危うさについてはいつも触れていますが…
そして、その奇しき出会いの瞬間というのは、なにか遠い昔の楽園生活とも感じられるような記憶が蘇り、今生で味わえないような霊なる親との対面に預かるのです。
ある種のキリスト教に見られる聖霊体験ではこの霊なる親は多く、”あれは間違いなくイエス様です!”と平然と語られます。”あなたは本当に見たのか!確証でもあるんですか?”と突っ込みを入れたくもなるのですが、”信仰は自由”というお互いの暗黙のルールが有るので…私は無宗教でいたいし…
ただ、こういう事態には”かくありたい”とかいった人の意識状態というものも反映されるようです。
この話を別の視点から見ると、クリスチャンは羨ましいと思います。聖書という実にドラマチックな書き物に自分の体験をなぞらえることが出来て…
”聖霊を受けると、聖書の文字が立体的に飛び出してくるんだ”という言葉も何となく分かります。
キリスト・イエスというのは人となった神ですね。西田幾多郎、毎田周一流に言えば、”絶対無の自己限定”です。
私の想像ですが、彼にはプロトタイプともいうべき存在が居たと思われます。
それは堕落した天使ルシファーです。彼の試みは神のようになろうという、自意識のもと衝動のままに動かされたのかも知れません、それがサタン的な試みだったかも知れません。でもそれは壮大な神と人間の劇として捉えれば、偉大な開拓者の冒険にも映ります。
この試みが子たる人間の誕生と関わっていたとしたら…彼は来るべき新次元の到来の先触れなのです。
故に”明けの明星”と呼ばれていたのでしょう。
ところで、罪なきイエスは何故、十字架を負わねばならなかったのでしょうか?人類の罪の贖い? 先代が犯した罪の贖い?…
イエスは周りからは神の子と呼ばれていましたが、自らは人の子と呼んでいました。
また使徒パウロは彼のことを堕落した、古いアダムに対して、”第二のアダム”と呼びました。
彼の福音書に見られる事績、言行の数々は人間は何処から来て、何処へ行くのか…人間そのものについての証なのではないでしょうか?
彼は旧約説話に基づけば、知恵の樹のみならず、アダムが見出せなかった生命の樹と共にあったのでしょう。
生命の樹とは一なる神に連なるものです。
イエスの出現は、知恵の樹により分離した我々を再び結び合わせるためだったのでしょう。
それは数千年前の聖書の記事のことなのでしょうか?
それとも来るべき普遍的人類の未来についてのことなのでしょうか?
いや、彼を信じようと信じまいと、我々一人一人のドラマからしか本当のところは示されないことでしょう。
それはさしずめ第三のアダムの開示といったところでしょうか?…













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