人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

失楽園の裏側

2015-10-17 13:53:57 | キリスト教関連
「お前の前にはいっぱい面白い本が有るよ。絵本、画集、哲学論文(こんな頭痛くなるもの私しゃ読めん!)、極め付きは聖書だ(神はこう言っただと!誰が書いたんだ、そんなウソ!)…だけどな…あの雑誌の袋とじになってるヤツ、封印されてるんだ。あれだけは絶対に見ちゃいけないよ!見たら死んじゃうんだよ!…」

良い子の皆さんは親からこういう戒めを与えられたらどうしますか? ちゃんとおとなしく守っていられますか? 私だったらまずじっとしてられなくてウズウズしてきて、しまいに間違いなく親が見てないのを見計らって、”為すべきことを直ちに”実行に移します。それが好奇心いっぱいの子供ってもんじゃないですか! 世の中の全ての戒めで破られなかったものなどあったでしょうか? そうです、戒めというのは袋とじみたいに破られるためにあるんですよ! そして破戒した者は、ゾクゾクするような冒険に乗り出すのです。それには多大なリスクも失敗も付き物ですね…
見たら死ぬのかも知れないけど、”これを見ずに死ねるか!”ってもんじゃないですか!…

楽園生活でのアダムとイブは神の戒めを聞き入れず、狡猾な蛇にそそのかされて、禁断の果実を食した罪により、楽園を追われることになりました。
もしかして神は全て御存知だったのではないでしょうか。好奇心いっぱいの人祖が、イケナイことを聞かされてウズウズしてきて何をやらかすかを…
一説にはこの楽園追放事件に加担した蛇は、神になろうとして悪魔に転落した天使長ルシファーであるとも言われています。(彼は”明けの明星”と言われていたそうです)
この物語の真相は神に聞かなきゃ分かりませんが、実に事の善悪が強調された話ですね。何しろこれにより我々に負わされた原罪が定まったというのですから…
でも人間として生まれてきた我々(アダムとイブの末裔です!)にとって、ごくシンプルに考えてどう感じるでしょうか?(人間卒業志願者はさて置き)もし、人間として生まれて喜びを感じているとしたら、堕天使ルシファー様様とは思えてきませんでしょうか?
彼は神のように自由になんでも創造できる意志を手に入れようとしたのでした。だが計画に失敗して、闇においてでしか生きられなくなったのか、自由意志を神の型どりをした人祖に吹き込み、託すことに成功したのでした。
そして輝ける明けの明星である地位を放棄して、地獄の魔王に成り下がったのでした。
私は昔からこのことには秘密が有ると感じていました。もし、ルシファーが神の怒りに触れて堕落したのでなく、自ら降って行ったとしたら…大天使の天空を天駆けられるであろう翼を失い、あらゆる制限と困難に満ちた世界に赴くことを選んだのだとしたら…
神はこの事も御存知だったのでしょうか?
ただ私には何となく、神は”存知せず…私しゃ知りません、奴らが勝手にした事、どうなろうと知ったこっちゃない!”と決め込んでいるように思えます。ルシファーたちの自立、分離を受け入れたのです。
それも自由意志を尊重するのでしたらごく自然なことです。
善悪を知る樹というのが二元性というものを象徴的に表しているのではないでしょうか?
そして神は我々の前から隠れ…身を引かれ給うた…我々を表に顕わすために…個的なものを表出させるためには、全的なものは退かなくてはなりません。
あたかも大海の水が退くことによって、島を浮き出させるように…
では何のため?…それは神に聞いてみなきゃあ分かりませんとも…
少なくとも、今感じていることは…ここで神とか人間とか表現出来るってことは、そういうものをイメージ出来るからこそなのです。全部が全部だったら何一つ表現することなど不可能なのです。ここで扱った大事件?すら起こりようが無い!
ドラマ、起伏、変化の無い世界って…自分が自分でないなんて…想像出来ません!
そして、秋の涼風がかくも清々しくて心地よい…。




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普遍化する福音

2015-06-29 00:02:51 | キリスト教関連
宗教、信仰というのはどんなものか…教団特有の教義が有って、それに信従する…人がよく思い浮かべられる文句は”信じれば救われる”というものでしょう。…
この典型的な例は、前にも書いたようにキリスト教に見ることが出来ます。
しかし私が生まれて初めて、キリスト教と呼べるような集会に接したものは、それとは全く違っていました。
というより、何回かあったそうした出会いの中でも、それはもっとも強烈なカルチャーショックを私にもたらしたものなのでした。色々な意味で…
その小池辰雄先生の集会のことは忘れることが出来ません。
その場に入った瞬間、言葉で言い表せない力、波動が立ち込めているのが認められました。
これはもう具体的な体感的なものであるので、抽象的にそれを信じる必要など無いのです!
その中にあって、”OOを信じます”などというのは全くバカみたいなことなのです!
これは実際にそういう経緯を見聞きしていますが、キリストのキの字も知らないという人、聖書など一度も読んだことの無いという人でも、その回心(聖霊のバプテスマ)を受けてしまうという事もあり得ることです。
(私自身殆ど何も知らなかったも同然で、その場は何事も無かったですが、そうなる可能性はあり得ました。)
私がそこで感じたものは、前記したような宗教らしいキリスト教に反し、凡そ宗教らしくないもの、非宗教的なものだという事です。
キリスト教という括りがもう当てはまらない…(で、小池先生はキリスト道と言ってました)
何故って、信仰も修行も儀式も必要が無いのですから…その恩寵を受けるという事は無条件的なものであったのです。
(とは言ってもその集会では無教会にのっとって?讃美歌を歌ったり、聖書の講話もあるのですが、そうしなきゃ恩寵に預かれないというものでは有りません。)
この聖霊を強調する集会は一般には所謂ペンテコステ派が知られていますが、教理的に偏る面が強くて私は関心が向きませんでした。
直接経験というものが打ち出されれば、そこで自然と内的な確信が生まれる訳で、抽象的な教理を信じるという在り方は、後退するのが普通ではないかと思われるのですが、逆に狂信的になる傾向が見受けられます。
本当に上よりの力を受け入れれば、そのような条件的なものに捉われるという事が無くなっていくのではないでしょうか?
それは神の前では”自分は何者でも無い””無条件的なものは元々与えられている”という事が知らされるであろうからです。
それは”自分は無いんだ”、とか”神と一つなんだ”とか懸命に理解しよう、信じようとすることとは根本的に違います。
限界ある自分を超えて雲の如く(シェキナー)臨在してくるものがあり、理解も信も上からやってくる、そのものによって”そうなっている”ものを受け入れるだけです。
福音とは、神学などで難しく語られたりしますが、ごくシンプルにそういうものなのじゃないですか?
そこで人間を超えた次元が開示される…しかしそれは人間自身による成長でなく、土壌自体の変容でしょう。
キリスト・イエスは約二千年前、”これが満ち溢れる世界が来たぞ!”と告げたのです。
この事はしかし、この現実世界がどっか別の次元に移行してしまう事でなく、このまんまで中から化体して来るという感じがします。
死んだようなサナギから蝶が顕れるようなイメージです。
これを促す聖霊の働きは全く宗派性を超越したものです。無教会という有限的境界を突破しようとする思潮からこのような動きが起こったのも必然と言えます。
又、カソリックには元々普遍性、公共性という意味合いがあるのだそうですが、これは正しく隠されていた普遍世界が公になるという事を暗示しているではありませんか?
キリスト教はもう死に絶えてしまうのかも分からない…否宗教自体も同じ運命にあるでしょう。
しかし原初の福音は教会の外で普遍性へと歩み出した…人々に目覚めを促しながら…
教会もドグマも廃れる…しかし福音は限りある境界を越えて、この現世に浸透し始めているのを感じます…。
















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キリスト教は死んだか?

2015-06-27 21:06:56 | キリスト教関連
以前、私はカソリックのシスターにこんなことをぶつけてみた事が有ります。
「最近はカソリックでも禅をやってる人が多いようですね、それって正しいことなんですか?…カソリックでもカリスマ運動ってのがあるんですね? あの異言とかしゃべっているやつ…あれは異端なんでしょ?」
するとそのシスターが言うには「福音の受け取り方、宣教の在り方は自由な筈です。何が正しくて、何が間違っているかなど人が決められることじゃあないでしょう」
いやあ、当然のことながら全く、その通りでありすぎる事です。
私はこの当たり前な言葉を聞きたくてわざと吹っかけてみたくなったのです。(意地悪!)
しかし私は同じことをプロテスタントの信者にぶつけてみたいとは思いません。何かきな臭い空気が起こりそうですので…
ヨーロッパ中世の暗黒時代を例に揚げるまでも無く、カソリック教会は長年信教を権力で牛耳ってきたという歴史が有りました。
そして信教の自由の実現に立ち上がったのがプロテスタントであったのはご存じのとおりです。
ところが60年代中頃の第二バチカン公会議を契機に様相が変わってきました。
当たり前でなかった旧教会が、当たり前のことを言い出した…これは実に画期的な事と言わねばなりません。
開かれた教会というものを打ち出し始め、それまでは考えられなかったようなユダヤ教、回教などの他宗派との対話といった試みがなされていったのです。前記の禅との関わりなどもこの流れから見られるようになったのです。
そして、もっと開かれていなければならないはずの新教各派は、完全に置いてけぼりを食わされた形となり、旧態依然のまま取り残されたといった感が有ります。
相も変わらず自称、他称の正統派が幅を利かせていて、今でも「私の信仰の在り方は正しいんだろうか、間違っているんだろうか?」と神経症気味の信者たちは、自分の人生なのに牧師先生の正統的判断に委ね続けている始末です。それが正しいかどうかは分かりませんが、(聖書に照らそうがどうしようが)内なる絶対者にたづねない限り、どこまでも”ああでもない、こうでもない”と、堂々巡りの繰り返しでしょう…
”イエスは神の子””三位一体””十字架の贖罪”これらの信仰のハードルをクリアーしなければ信者になれないのだと言う…
”僕には信じられなーい!”だったら止めりゃあいいだけでしょ? 実際にこのような人に会ったことありますが、それでも信者になりたいと言う、その心理が私には理解出来ません。
でもこのようなことは、全ての”信じる宗教”について言えるのではないでしょうか?
つまり、キリスト教(特に今は新教)に典型的な宗教の雛形を見ることが出来るかと思います。
宗教の名の下での戦争、弾圧…これらの殆どにキリスト教自体が関わって来たし、他宗教によるものでもキリスト教がらみの遠因が求められるものが多いです。
しかし、一体どうして教会はイエス時代からは全く似ても似つかないように変質してしまったのでしょうか?
私が思うにキリスト教は初期の頃から、現実世界と関わって来たからだと思います。そこからしばしば社会運動が生まれたようにです。(共産主義も、ナチズムも、そして我が国の天O絶対の国家主義も基教がらみの遠因で出現したようなものです)
この事はしかし霊性の希薄化を招く要因となってしまったようです。
そして今やネオ・ノンデュアリティなるものが台頭して来て”あんたたちの時代はもう終わった!”と通告をしているかのようです。
それが摂理であれば仕方のないことでしょう。
しかし信徒たちはどうして現世の諸々の魔的力にさらされながらも俗の中に入っていたのでしょう?大きなツケを残して…
イエスの福音は”神の国が来た!”で始まりましたが、神の国とはこの現実世界とは別のどっかの高次元の世界なんでしょうか?
いいや、私にはここを置いて他には考えられません。
神の国とこの堕落し切った現世…これは一つになる?
キリスト教が別のものに生まれ変わった時?…。









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油と聖霊

2015-06-02 14:52:03 | キリスト教関連
宗教は実存的な問題で、「どの宗教が優れているのか?」ということを問うことでは無く、一人一人が現在、生ける神との出会いの経験の濃淡を問うことです。      
手島郁郎 「聖書の宗教とイスラエル」(ミルトス刊)

各地の有名な神社仏閣で、油のような液体を掛けるなどして、暗躍していたものの正体が浮かんできました。
私はこれはどうも狂信的なキリスト教徒の仕業ではないかと、にらんでいたのですが…やはり…
単なるいたずらだったら何故ペンキなどで派手にやらないのだろうか? ”油注ぎ”という行為に引っかかったのです。(気になりますねえ…右京さん!)
というのも、聖書によれば油を注ぐという事は神の霊、聖霊を注ぐということの象徴を意味しており、おそらくこの事を知っているであろう人がやっているんだろうと思ったわけです。
しかしその意図というのが、呪いを解いて清める…とかなんとかっていうのは?
私はてっきりすっかり形骸化した日本の伝統的宗教に命を吹き込むような試みだったと思ったのですが…
どっちみち普通じゃないです。本当に日本の伝統を愛する人ならやりませんね…。
十数年前、私は確か”聖書と日本フォーラム”という集いだったかに参加した事が有ります。
私はそこで”学研ブックス”などで取り上げられていた、日本=ユダヤ同祖論に関する突っ込んだ話が聞かれるとばかり期待していたのです。
ところがパネラーの方の話を聞いているうち、だんだん違和感、さらには嫌悪感が込み上げてきました。
そこでの主要なテーマに「日本におけるキリスト教の土着化」という、内村鑑三の無教会の提唱以来の、というより我が国の同教受容以来のテーマが掲げられ、それ自体は私も大いに関心が有ったのです。
ところが…見えてきたのです…上から目線のキリスト教宣教の野心が…
彼らの言説から感じたものは「偶像を拝んでいる異教徒たち(彼らは知らずに聖書の神を信じているとされます)に本当の神の教え、聖書の教えに立ち返らせようではないか!」といったものです。
そしてそこからは日本古来から伝わる霊性への畏敬といったものは感じられません。
彼らは言います。「何故、この国には福音宣教が遅々として進まないのだろうか?」
分かり切った話じゃありませんか! ”宗教の植民地政策”のようなものに魂が動かされ、目覚める事なんてあるだろうか?
洗脳ならいざ知らず…
小池、手島両先生にとっても福音の土着化というのは大きなテーマで”大和島根を祭壇に!”といったフレーズを掲げてましたが、上記のような野心は見受けられませんでした。むしろ日本人の血というものを感じさせたものです。
私は特に小池先生の集会には縁が深かったのですが、そこでハッキリと宗教的ドグマが介在しないところでの、霊の息吹きというものを沸々と感じたものです。
そしてこのような色のつかない命に預かってこそ、宗教思想の枠を超えて和合が実現されるのではなかろうか、と…
キリストの生命は抽象的な教理でなく、実存的に我々日本人の接木された時、上からでなく、下から目覚めが促進されるのではないでしょうか…。
冒頭の件は見た目にはケッタイな事件でしたが、見えない何かを象徴しているようでもありました…。




































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人格、聖霊、キリスト

2014-12-23 12:13:58 | キリスト教関連
「キリストが我々に教えに来たのは、彼が何者であるかでなしに、我々が何者であるかという事です。」
                     ( マックス・ミューラー 人生の夕べに)

私がこのところ、どうしても釈然としないと感じていることについて書いてみます。
「一なるものから分離した人格なるものは幻想である。不幸や苦悩はそこから起こってくるのである。」これ所謂不二一元論者(敢えてこう表現しますが、私見ではそのように語る個人は存在せず、又この世にそのような学派が存在するとは思えないのですが…)好んで使う言葉ですね。
自分がどの国に生まれ、どこの家に生まれ、どこの学校を出て、どんな仕事をして、何の宗教を信じて…
こういうものから自我の確立、アイデンティティというものが生まれ、そして各々がその存在意義といったものに捉われ初め、一なる生命からの分離感から諸々の苦悩、不調和が起きてくるという訳ですね。
この人格なるもの…これを巡って如何に我々の理解が錯そうされてきていることでしょうか?
宗教哲学者N・ベルジャーエフは、人格のもたらす意義について、熱く語っています。
「人格は人間の内に宿る永遠なる神の姿である。人格は人格より大きい何者かの一部分ではなく…(中略)この世におけるすべてものに比べても勝るとも劣らない全体である。」(ベルジャーエフ 人間の運命)
同じ人格として語られているものでも、そこには天と地ほどの開きがあるように思われてなりません。
後者が述べているのは、まるで不二一元論者が語る真我の事かと紛うくらいです。
前者で言われているのは我々の外被、装飾、付属物であって、我々の当体のことではないのです。
我々の当体は個であっても、一にして全体、絶対なるものを宿しているのです。
全く掛け替えの出来ないものたる所以です。
それが幻であるかどうかは、覚者に聞くより、貴方自身で確認すべきものです。
そうでないと、いたずらに観念的遊戯に陥るだけです。
この種の錯そうが物語っているのは、取りも直さず我々が本当の自分が分かっていないからだと思います。
この世のありとあらゆる問題の全てもまた、そのことに起因しているでしょう。
何故ならば、宇宙も、世界も、歴史も、神も…それを見ている当体が、自分自身がなんであるか分かっていないのだから…。
ところで孤高のキリスト者ベルジャーエフは、当然異端扱いにされるでしょうが、自称正統なる教会では我々の人格のみならず、神もまた人格を有すると言います。
我々と同じように神は怒り、歎き、お喜びになるのだと…聖書に何が書かれていようと、エライ人が何を語ろうとその真偽のほどは神に直接聞かないと分からないでしょうね?
でも別の意味で私はこの人格神というものを否定する気になりません。
波動、バイブレーションといったものを通して、この現臨の現れを知らされるのですが、それがもたらす強烈なインパクト、リアリティというものは到底
気、とか波動といった力学的表現では言い尽くすことは出来ないからです。
ある人間の存在感を表しているものは、何かと言ったら私はペルソナ、人格だと思います。
同じように圧倒的な実在感というものを醸し出しているものとして、人格だか神格?みたいなものを想定してみたくなるのです。
キリスト教に無くてならないものに聖霊と呼ばれているものが有ります。
それには人格が有るのか、無いのか議論が有るらしいですが、その表現から来る響きには確かに力学的なものを超えたインパクトが感じられます。
何よりも親近感が違います。
私は最近、この現臨感というものがどこから来るのか…おそらく光が内なるものを照らし、そこから発してくるものに反応しているのかも分かりません。
聖霊は又パラクレートス、助け主とも言いますが、私はこの恩寵の光を切に望みます。
彼は我々の無益な錯そう、議論にピリオドをもたらすでしょう。
彼が生きて働くとき、我々が何者か知ることが出来るでしょう。
真に我々が目覚めれば、世界は変わる!
もうすぐクリスマス、どこかで神の御子が誕生しますように…。
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