「お前の前にはいっぱい面白い本が有るよ。絵本、画集、哲学論文(こんな頭痛くなるもの私しゃ読めん!)、極め付きは聖書だ(神はこう言っただと!誰が書いたんだ、そんなウソ!)…だけどな…あの雑誌の袋とじになってるヤツ、封印されてるんだ。あれだけは絶対に見ちゃいけないよ!見たら死んじゃうんだよ!…」
良い子の皆さんは親からこういう戒めを与えられたらどうしますか? ちゃんとおとなしく守っていられますか? 私だったらまずじっとしてられなくてウズウズしてきて、しまいに間違いなく親が見てないのを見計らって、”為すべきことを直ちに”実行に移します。それが好奇心いっぱいの子供ってもんじゃないですか! 世の中の全ての戒めで破られなかったものなどあったでしょうか? そうです、戒めというのは袋とじみたいに破られるためにあるんですよ! そして破戒した者は、ゾクゾクするような冒険に乗り出すのです。それには多大なリスクも失敗も付き物ですね…
見たら死ぬのかも知れないけど、”これを見ずに死ねるか!”ってもんじゃないですか!…
楽園生活でのアダムとイブは神の戒めを聞き入れず、狡猾な蛇にそそのかされて、禁断の果実を食した罪により、楽園を追われることになりました。
もしかして神は全て御存知だったのではないでしょうか。好奇心いっぱいの人祖が、イケナイことを聞かされてウズウズしてきて何をやらかすかを…
一説にはこの楽園追放事件に加担した蛇は、神になろうとして悪魔に転落した天使長ルシファーであるとも言われています。(彼は”明けの明星”と言われていたそうです)
この物語の真相は神に聞かなきゃ分かりませんが、実に事の善悪が強調された話ですね。何しろこれにより我々に負わされた原罪が定まったというのですから…
でも人間として生まれてきた我々(アダムとイブの末裔です!)にとって、ごくシンプルに考えてどう感じるでしょうか?(人間卒業志願者はさて置き)もし、人間として生まれて喜びを感じているとしたら、堕天使ルシファー様様とは思えてきませんでしょうか?
彼は神のように自由になんでも創造できる意志を手に入れようとしたのでした。だが計画に失敗して、闇においてでしか生きられなくなったのか、自由意志を神の型どりをした人祖に吹き込み、託すことに成功したのでした。
そして輝ける明けの明星である地位を放棄して、地獄の魔王に成り下がったのでした。
私は昔からこのことには秘密が有ると感じていました。もし、ルシファーが神の怒りに触れて堕落したのでなく、自ら降って行ったとしたら…大天使の天空を天駆けられるであろう翼を失い、あらゆる制限と困難に満ちた世界に赴くことを選んだのだとしたら…
神はこの事も御存知だったのでしょうか?
ただ私には何となく、神は”存知せず…私しゃ知りません、奴らが勝手にした事、どうなろうと知ったこっちゃない!”と決め込んでいるように思えます。ルシファーたちの自立、分離を受け入れたのです。
それも自由意志を尊重するのでしたらごく自然なことです。
善悪を知る樹というのが二元性というものを象徴的に表しているのではないでしょうか?
そして神は我々の前から隠れ…身を引かれ給うた…我々を表に顕わすために…個的なものを表出させるためには、全的なものは退かなくてはなりません。
あたかも大海の水が退くことによって、島を浮き出させるように…
では何のため?…それは神に聞いてみなきゃあ分かりませんとも…
少なくとも、今感じていることは…ここで神とか人間とか表現出来るってことは、そういうものをイメージ出来るからこそなのです。全部が全部だったら何一つ表現することなど不可能なのです。ここで扱った大事件?すら起こりようが無い!
ドラマ、起伏、変化の無い世界って…自分が自分でないなんて…想像出来ません!
そして、秋の涼風がかくも清々しくて心地よい…。
良い子の皆さんは親からこういう戒めを与えられたらどうしますか? ちゃんとおとなしく守っていられますか? 私だったらまずじっとしてられなくてウズウズしてきて、しまいに間違いなく親が見てないのを見計らって、”為すべきことを直ちに”実行に移します。それが好奇心いっぱいの子供ってもんじゃないですか! 世の中の全ての戒めで破られなかったものなどあったでしょうか? そうです、戒めというのは袋とじみたいに破られるためにあるんですよ! そして破戒した者は、ゾクゾクするような冒険に乗り出すのです。それには多大なリスクも失敗も付き物ですね…
見たら死ぬのかも知れないけど、”これを見ずに死ねるか!”ってもんじゃないですか!…
楽園生活でのアダムとイブは神の戒めを聞き入れず、狡猾な蛇にそそのかされて、禁断の果実を食した罪により、楽園を追われることになりました。
もしかして神は全て御存知だったのではないでしょうか。好奇心いっぱいの人祖が、イケナイことを聞かされてウズウズしてきて何をやらかすかを…
一説にはこの楽園追放事件に加担した蛇は、神になろうとして悪魔に転落した天使長ルシファーであるとも言われています。(彼は”明けの明星”と言われていたそうです)
この物語の真相は神に聞かなきゃ分かりませんが、実に事の善悪が強調された話ですね。何しろこれにより我々に負わされた原罪が定まったというのですから…
でも人間として生まれてきた我々(アダムとイブの末裔です!)にとって、ごくシンプルに考えてどう感じるでしょうか?(人間卒業志願者はさて置き)もし、人間として生まれて喜びを感じているとしたら、堕天使ルシファー様様とは思えてきませんでしょうか?
彼は神のように自由になんでも創造できる意志を手に入れようとしたのでした。だが計画に失敗して、闇においてでしか生きられなくなったのか、自由意志を神の型どりをした人祖に吹き込み、託すことに成功したのでした。
そして輝ける明けの明星である地位を放棄して、地獄の魔王に成り下がったのでした。
私は昔からこのことには秘密が有ると感じていました。もし、ルシファーが神の怒りに触れて堕落したのでなく、自ら降って行ったとしたら…大天使の天空を天駆けられるであろう翼を失い、あらゆる制限と困難に満ちた世界に赴くことを選んだのだとしたら…
神はこの事も御存知だったのでしょうか?
ただ私には何となく、神は”存知せず…私しゃ知りません、奴らが勝手にした事、どうなろうと知ったこっちゃない!”と決め込んでいるように思えます。ルシファーたちの自立、分離を受け入れたのです。
それも自由意志を尊重するのでしたらごく自然なことです。
善悪を知る樹というのが二元性というものを象徴的に表しているのではないでしょうか?
そして神は我々の前から隠れ…身を引かれ給うた…我々を表に顕わすために…個的なものを表出させるためには、全的なものは退かなくてはなりません。
あたかも大海の水が退くことによって、島を浮き出させるように…
では何のため?…それは神に聞いてみなきゃあ分かりませんとも…
少なくとも、今感じていることは…ここで神とか人間とか表現出来るってことは、そういうものをイメージ出来るからこそなのです。全部が全部だったら何一つ表現することなど不可能なのです。ここで扱った大事件?すら起こりようが無い!
ドラマ、起伏、変化の無い世界って…自分が自分でないなんて…想像出来ません!
そして、秋の涼風がかくも清々しくて心地よい…。