人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主は偕にあり

2021-02-17 10:23:59 | 人生の裏側の図書室
「神が分かるとか、分からないとかそのことは意味はない。何のことはない、自分は分かる者がそこに居るんですから、神なんて言ったところが、そんなものは嘘っぱちであります。無神論者が神は嘘だというのは本当なんだ。自分ばかりしか見ないもんだから神がある筈がない。しかし神と会うことによってどうなるかと言うと、裏になる。初めて分からざるものが分かってくる...」(田中遵星「主は偕にあり」信教出版社刊)

以前、このコーナーで田中小実昌さんの「アメン父」という本を紹介したことがあるのですが、そこで描かれていた小実昌さんの実父、田中遵星(本名田中種助)先生の幻の説教集が復刻されているのを先日書店で見つけ、衝動的に買ってしまい、何やらコーフンのうちに読んでみました。
まず、挿入されてある先生の写真...アゴ髭をたくわえ、手島先生を彷彿させるものがありますが、どっかで見覚えがあるのですが、思い出せません。とにかく、一度接したら忘れられない風貌なのです。
小伝によると、大正14年、神の御臨在を感じ出して、それまで所属していたパプテスト教会から追放され、昭和3年、独立教会として「アサ会」を"拝命"されたとありますが、霊的召命を受けることによって、既存の組織宗教とは相容れなくなるのは宿命というか、そうならなきゃ嘘でしょう。それも、"ポロポロ"と異言が発現してしまうとあっては..."ハハハハ...サンダ ポーロ アメン アメン..."
その語り口は、似た経歴を持つ、私に馴染みのある、手島先生や小池先生のような(主知的傾向の強い?)無教会出身の方たちと違って...(いや、あの先生たちは、やっぱり例外と見るべきか?...)、あちこち飛躍したり、脈絡を欠くなど、あまり教養というものを感じさせません。
それだけに、整った、取り澄ましたモノ言いからは感じられない、語り得ない、言葉を超えたもののことを伝えているということが、ヒシヒシと伝わってきます。
言葉が破れてしまっているi...語る者も、聞く者もこの"破れ"に迫る中でその集会は行われていたのでしょう。
「おれはこういうことが出来たからこうだ、とすぐ自分の内心をいばる。そういう人は神に与っている人ではない。...一人偉くなるのではない、神の中におられる、これが大切です。...」
ここには「受け」ということが強調されています。何を、どう受けるのか?...多分、"私は受けました、受けております"、ということでは分からない何かなのでしょう。
私は破れないと、スッ飛ばされていないと分からない何かなのでしょう。
要するに、私は分からなくていいのでしょう。
いや、もう私ごとでないってことは、何とリアルなことなのかi  私は思ってない、考えていないということなのだから...
こういうことを生に、ストレートに伝える記録というものは、滅多にお目にかかれるものではありません。
もう、言葉がおっつかなくなりそう..この本の書評は、かく破れかぶれなものとならざるを得ないので、このヘンで...
お求めの向きは直接ぶち当たってみて下さい。

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マイスター.エックハルトと無の道

2021-01-11 10:44:11 | 人生の裏側の図書室
「人間は自分の頭の中で想像した神に満足してはなりません。何故なら(神に対する)想像が消え失せるにつれて、神も消え失せるでしょうから。むしろ我々は本質的な神を持たねばなりません。このような神は、人間の想像とあらゆる被造物の想像をはるかに越える方なのです」
(マイスター.エックハルト「神の誕生」/エンデルレ書店刊)

中世ドイツの神秘思想家マイスター.エックハルトの本を久しぶりに読んでみました。
初めて読んだのは40年ほど前で、とにかくものすごく心が揺さぶられたのを、昨日のことのように覚えています。
何をどう、理解したかはともかく...いや、簡単に理解した、分かったなどと言ってはいけないのでしょう。ことに神については...
エックハルトは、修練を通して、我意から離脱することで、神との一致の道が開かれると説いているのですが、その修練の具体的な方法などについては述べられていません。
それは、残された彼の言葉から伺えるように、当時、修道院で広く行われていたであろう、断食、徹夜といった厳しい規則や苦行に則ったものでは無かったのは明らかです。何故ならばそれも我意から来るものだからです。
彼が強調するのは、専ら神そのものを求めることにあったのです。その神は、外的な像ばかりでなく、心に描かれる如何なる像からも離れたものでなくてはならないと言います。
「誰かがある一つのものを熱心に愛する時、彼はそのもの以外の何をも心に留めないでしょう。...彼が愛しているものは、彼の内から決して消え失せません。それはどこにいても誰と一緒にいても、何を始めても事情は全く同じです」(同書)
つまり、我々がこの我意からの離脱を可能にするものは、我々の努力に依るのではなく、最愛なるもの、思いを超えた神的なものに依るのに他ならないのです。
"神的なもの"...彼は容易に"心の像"と結び付く"神"という言葉に対して、"神性"ということを言って、区別していました。
それは、我々の思いを超えた、心の底、絶対無の領域であり、そこで出会う神は言い表すことは出来ない...
西欧キリスト教社会で、これほど"直接的に"無の道を切り開いた人を私は知りません。
もはや、ここには信仰も修行もありません。
...と、こう書いてみて思うことは、私の精神には、ずっとこのような道念みたいなものが息づいていた、ということです。
私が日頃言っているものの"元ネタ"はここにあったのか、と自分でも思うくらいです。
しかし...ただ、借り物だろうが何だろうが、字面を追うだけでいつもあんなこと書けるか、ってんですよi...これは、あの時心が揺さぶられたから、自然に言葉が出て来てしまうということなのでしょう。
どれだけ分かって言っているのかはともかく...分かったつもりになったら、何も分かっていないということは分かっている(つもり)です...。

エックハルトの書物は手に入り易いものは、他に講談社学術文庫「神の慰めの書」、岩波文庫「エックハルト説教集」がありますが、私が最初に読んだ上のものは、分量は少ないですが、とても読み易く意味は分からないが、すーっと読めたのでした。
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世紀末のトリックスター、バシャール

2020-07-23 10:54:33 | 人生の裏側の図書室
スピリチュアルなことに関心を持っているのなら、「バシャール」のことを知らない人は居ないでしょう。
何でも、又々今年の八月が人類の未来に向けて大きな分岐点になるとか、如何にもこの時節に合わせたようなことを言っているようですが、何年か前にも、(いやいつもというべきか)、同じことを言っていたような...正直アタシャ、もう、"ゲップ"です!
大体、あのダリル.アンカってチャネラーの人、今でもそれを続けているってのがオカシイのです。
私が、ヴォイス社から出ていた本で、このダリル=バシャールを通じて"チャネリング"なるものを初めて知った、昭和63年夏の当時彼は(乗り移った存在を通じても)、数年後には、その職を引退すると公言していたからです。
彼がこの分野の創始者って訳でも無かったですが、その後続々と後継が表れるなど、空前のブームになってしまったのはご存じの通り...こんだけ、有名になってしまうと、大衆に取り巻く集合的思念に取り込まれ、精度も落ち、惰性にも陥ってしまうのも致し方のないことなのでしょう。
しかし、あの当時は全く知る人ぞ知るという感じだったのです。
そして、そのメッセージの内容は...勿論すべてがそうだった訳ではなかったですが、ある部分では、私にはじっつに画期的な、斬新なものに思えました。
例えば、今ではこういう言葉などゲップものなのでしょうが、"世界はあなたの意識が作り出している"、"あなたが意識したものが実現する"、"あなたが変われば世界が変わる"...
勿論、あなたの意識が変わっても、直ちにコロナ禍は終息したりなどしませんよ。しかし、こういう言葉のある面は今でも私には頷けるものがあります。
こういう説き方をする教師というのは、それまで、私が知らなかったというだけでなく、ほとんど存在しなかったと言っていいでしょう。
これは、精神世界に一つの大きなエポックをもたらしたのには違いないと思います。
具体的にどういうことかと言うと...ベクトルが変わったのです。(余計何のことか分からない?)それまでの宗教やスピの聞き手の心的態度というものは、ほとんどが信者のそれと言ってもいい...教師の言うことをただ信じ、従う...教えるものと信じるものの一方通行ばかりだったのです。
バシャールが強調していたのは、フォーカスするということ、意識的であること、主体的に関わること...つまり、あなたの人生、世界の主役はあなた自身だ、ということです。
初期のバシャールの本で、私が一番面白く読んでいたのは、やたらと出てくる、"質疑応答"で、何か非常にライブ感覚(この感覚を持ち込んだのも画期的でした)が伝わってくるものでしたが、この中で例えば、"私の前世は何ですか?"という質問について、(その回答にどんな意義、意味があるのかはさておき)ある人には懇切丁寧に具体的に答えるのに対して、ある人にはキッパリ、"答えられませんi"、と突っぱねてしまう場面が度々見られました。
この違いはおそらくバシャールは、質問者の意識の有り様に応じていたんじゃないかと思われます。そしてしばしば彼は質問者自身に"主体的に"、語ることを促していたのです。
"あなたがあなたの前世を知ったとして、それがあなたにどういう意味があるのか?"
バシャールは"エササニ"という全然聞いたことのない星から来たのだという。私はそんなこと信じようと、信じまいとどっちだっていいのですi...その他第三、第四密度とか、"何年後かに我々の存在はあなた方に公然の事実となります"、という実現した試しなどない予言のこととかも...
何よりも、バシャール自身が開口一番、"私の言葉を信じなくてもいいのです"と言っているではありませんか? (バシャール信者はどう思うだろうか?)
一方で、"無理に従う必要はありませんi"、と言っていた、売り物の一つの誘導瞑想は私には、思考マインドから離れるどころかますますそれが強まって来そうで、全く合いませんでした。
もしかして、あれはマインド.コントロールか何かを目論んでいるのでは?
このバシャール現象には、前述したような主体的な在り方を切り開いた面も感じますが、現在の在り方にも見えるように、まるで宗教信者が群がるような依存的態度も、その当時でも一部に伺われたことです。
これは、バシャール自身が意識してこういう、意識の在り方によって、異なった有り様に別れてゆくことを知って誘導しているのかもしれません。
良くも悪くも我々の世界は、我々が意識したように作られてゆくのかもしれません。
私にはずっとバシャールという(宇宙)存在は、20世紀末、我々日本人としても昭和の終わりに出現した、その善悪交々、新しい時代の傾向を広く一般に向けて告示する、トリックスターに思えてならないのです。
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唯一無二の書

2020-05-03 10:29:32 | 人生の裏側の図書室
「わからなければならないのは自分自身の真実であって、誰かの真実ではない」
「この本との出会いについては自分自身に感謝すればいい。すでに大事なことを教えられたはずだ。最高の権威は自分自身のなかにある、ということを」
(ニール.ドナルド.ウオルシュ「神とひとつになること」/サンマーク出版)

私はおそらくかなりの読書家の部類に入るだろうと思います。
月に再読するものも含めて10冊以上は読んでいます。
宗教やスピなどの関連でも、数えきれないほど様々な道、教えのものを読んできました。
しかし、そのいずれにも、その道、教え一筋に帰依し、従事してゆくことは無かったのです。
一体、それらの書物から何を学び、何を体得し、そして何が残ったのか、いやそもそもそういうことを意図していたか、どうかということさえ無かったようにも思えるし、テンデに分かりません。
だけど、これだけは言える...ある書物と出会っているし、ある読書体験というものもある...いや、それは読書体験などという生易しいものではなかったかもしれない...読んでいるうちに疾風怒涛の如き精神的嵐に見舞われ、我を忘れてしまうこともあるなど、何をどう読んだかなど言い表すことが出来ないのです。
覚えているだけでも、マクドナルド.ベイン、ベルジャーエフ、手島郁郎、小池辰雄、玉城康四郎...そしてあの迷路のような出口聖師の「霊界物語」にもそういう契機となるものを見い出しています。
その中の一つ、通称"三千冊"と呼ばれる大調和協会の知られざる聖典の中で、会主命御は「ここで名告りを挙げているのは、人類というあなたなのです」と告げられていました。
キリスト.イエスは「聖書は私のことを証しているのである」(ヨハネ伝)と言いました。
書かれていることが真実かどうかなど分からないし、言葉そのものに信をおくことなどどうでもいいことでしょう。
著者がどういう人かということも...そうそう、「日木流奈」という脳障害児が書いた、何ていうのもありましたが、これなど極めつけのフェイクと言うべきでしょう。
しかし、その文章に接して、私の内なるものが揺すぶられたのは紛れも無い事実なのです。
たとえ一点でも言葉を通して、言葉に言い表せないものに出合わせられること、それはただの読書の感想などで片付けられる訳がありません。
それは"唯一無二の私"との出会いではないでしょうか?
私自身に会うということはそこには追従とか従属、まして特定の教えへの依存、狂信などあろうはずがありませんi
そして、世の中に数多の異なった教えや思想があるように見えるが、本当に自分自身が帰一されるのは一つしかないのではないか?
私は一なるものだし、その私の魂が揺さぶられることは二つないことなのだから...
万巻の書を読破しようと、"私自身の書"というのは、一書あるのみ...そして一なるものは全てなるもの...
私自身の真実が書かれているのは、沢山あるのではない、唯一無二の書しかないのです。
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五井先生の本筋

2020-05-02 09:56:01 | 人生の裏側の図書室
今、「神のみ実在するー五井先生かく説き給う」(白光出版)という、五井先生の長い間側近だった高橋英雄さんの本を読んでいるのですが、改めて五井先生は、人々に本心に目覚めることを主眼に教えを説かれていたことを思わされます。
その序文にも「宗教とは自己の本体、宇宙絶対者たる神を直接体験し、把握することから始まる」とある通りでしょう。
その祈りによる平和運動というものも「地上に神性人間を顕現する方法として、世界平和の祈りを提唱し、それに人間のあらゆる想念を統一、統合することによって、人間の神性、霊性は開発され、それによってのみ世界の平和は実現する...」という性質のものだったのです。
直接体験ということは、知識として分かることでないのは言うまでもなく、先達の言葉の受け売りからだけでは自己の本体につながることは出来ないでしょう。
そして、当然のことながら人間、一人一人機根も資質も異なるので、同じような道を辿らされる訳ではありません。
例えば、五井先生は、その霊性開発の過程で、守護の神霊から強制的に想念停止の修行をさせられ、それが非常な苦しみを伴うものだった、と言われていますが、私などは全く経験の無いことなので理解出来ないことなのです。(想念が自ずと停止させられたことはありましたが、そういう修行をさせられた覚えはありません)
誰も先生のマネなんか出来ないのです。
しかし、一人一人顔も考え方も感じ方も違うものであるけれど、本心の座という"至聖所"において一つになれる...かもしれません。そしてあなたの本心は、あなた自身が、あなたの神(それが唯一無二の神i)がご存じなのでしょう。
こういうことは、不特定多数のどこの誰だか分からない一般に向けたって伝わる訳がありません。心から心に、内なるものから内なるものに共振し、伝わるものなのです。
"今が大変な時だから、一人でも多くの人に宇宙善史の教えを拡散しなければ..."と、上からの指令らしきものに踊らされて何かを"やっちまった"ような御仁は、自分の本心が何だか分からず、共振ならず狂信して集合的思念に飲まれて、人々をそれに引き込もうとしているのです。
これが実に40年以上も五井先生の教えを信奉してきた人間が発信していることなのです。
一体何で、どっから五井先生が主眼とされた道からかくも脱線してしまうのでしょうか?
こういう世迷いごとについて、批判がましいことを言うのも迷いからであるのは私も自覚していますが、言わずにおれなくなるのですi...それは多分、この御仁のことを少なからず知っているという因縁と、やはり五井先生の本筋と同調したいという思いが強く、それが歪曲されることに黙っておれない部分があるためでしょう。
いや、しかし私などはとっくの昔に形の上では先生の道から脱線していて、ずっと"消えてゆく姿で世界平和の祈り"をしていた訳でもないので、こういうことを私が言うのは多分間違っているのでしょう。
しかし、それでも今もなお五井先生に、そのすべてではないにせよ、深く共感を持ち続けているのは事実なのです。
方便とか枝葉のこと、表層のことでなく、私の奥には変わらないものが息づいていて、知らずにそれに導かれているのを覚えずにいられません。

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