人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

AIの公案

2023-04-01 10:00:03 | 雑感
南直哉さんの「恐山あれこれ日記」というブログを読んでいたら、驚くべきことが書かれていました。
AIソフトが道元の「正法眼蔵」の解釈をやっているではありませんか!
その中の有名な「現成公案」の一節、「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり...」のところなのですが、大意は、仏道というものは、自己を修めること、自己を超越すること、それは万法に対して真理を証明すること...」というようなことを“AI老師“は述べられていたのです。
多分、私など到底太刀打ちなど出来ない、無駄の無い表現がなされているのでしょうが、どうも我々一人一人の現実には即していないものを感じてなりません。
端的に言えば、手放しで、“自己を超越する“と言い表されているところにそれを感じます。
それを受けて、万法に証せらるる、証させられるという言葉が、自動詞の流れになってしまい、生きて来なくなってしまうようです。
AIにそのことを突っ込むのは、酷なことなのか、そういう受け取り方をするとAIに突っ込まれてしまうのか、どうもよく分からなくなりそうですが...
しかし、この解釈の元ネタの多くは、我々の内のお歴々の方たちから来ているのだろうし、これまでの主流となる解釈としてAIに反映されている、と考えていいのでしょうか?
もしかして、“禅は自力修行だから、自動詞で述べられていいんだ“、という認識が多くの仏道探求者にはなされているのでしょうか?
過去のデータではそうなのかもしれませんが、それはあくまで卓上のことではないでしょうか?
自力だろうと何だろうと、現実には、自己を超越させる何かが無くして、自己を超えることは出来ますまい!
このことは、我々の生の情報システムにはインプットされていないのでしょうか?
いや、人工頭脳には理解出来ないことなのでしょうか?
いやいや、もし理解出来るようになったとしたら、想像するだに恐ろしいことになりそうですよ!
悟りは人工頭脳によって開かれる...神と一つになる...いやAIが神に取って代わるのか?!
そんなこと!...アタシャ、せめてAIがキュンキュンなネコちゃん並みの感情を有するようになるまでは到底受け入れることなど出来ません。
それまでは、キカイにゃ、神的超越者のことも、すべてを照らし、通る万法のこともインプットさせてはならないでしょう。
しかし、我々一人にそのことがインプットされないならば...自己を超越させるものとつながらないならば...自己は自己を超えたものによって在らしめられることに目覚めないならば...
我々には、限界内に閉じ込められた我々自らによって滅びに至る、という現実が待ち受けているのではないでしょうか?!
現実には、我々はなすことは出来なくとも、それを超えてどういうことがなされているのか?...そのことをAI老師から突きつけられているようではありませんか?!
コメント
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