人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私であること、ないこと

2023-04-16 09:52:00 | 意識、照明
“意識を向ける、意識的になる“、なんていつも言ってますが、これは、“人間は、考え、為そうとするるものだ“、という大方の人間の在り方に合わせて、分かりやすく言っているまでです。
本当は、向けるも、なろうとするもなく、意識的であることが本来の人間の在り方なのです。
だから、そうなるためには、何らの意志的な努力も必要でないはずなのです。
“私が私であること“、に何でそんなことが要るのでしょうか?
このことを端的に言い表している言葉が、“サット.チット.アーナンダ(私であることは、意識的なこと、そしてそれは幸福なこと)“です!
これは、極めて私自身であること、私に直接つながっていることに他なりません。
悟りや目覚めに導かれるような人というのは、おのずとこのような意識状態になっているものと言えるでしょう。
ということは、死んだ後の世界のことや、前世や未来のこと、現実から離れた高次元のこと、地獄や陰謀論やなんやかんやのことには、意識が向かないものなのです。
それらは、私自身であることと直接関わらないこと、意識的でない、思念の世界のことだからです。
又、悟るためには、幾つものチャクラを開かなければならない、とか何段階ものレベルを通らなければ、何年も努力精進を重ねなければ...などのことも同様でしょう。来ない先のことは、私自身であることと何のつながりも無いからです。
何故、わざわざホントかどうか分からないにも関わらず、遠回りの条件付きの道を設える必要があるのだろうか?
どうして、何十年経っても、“そのうち悟りが開かれるだろう...“、なんて言い続けなければならないのか?
悟る云々は別として、こういう人は、“私でないこと“にばかり意識が向けられているからではありませんか?
もし、本気で悟りや神と一つになることを求めるのであれば(そういうことが習い性になっていること自体、本気でない、意識的になっていない、ということなのであるが)、そういう思いから離れるという意志的な努力が必要でしょう。
前言と違うことを言うようですが、思念世界のことは、それに合わさなければならないこともある、ということです。
そうでなければ、如何なる道を歩むにしても、根本がズレたものになるだけでしょう。
いやはや、宗教的、スピの道には、何と無駄が多いことか!
私が私であること、たったそれだけのことなのに!...
このことに本当に気付いたならば、前々言みたいなことを言うようですが、眠りから覚めるように、何らの努力も無しに、真我に目覚めることが出来る...かもしれません?...
コメント
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