人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の義と愛

2023-04-05 09:58:52 | 
「この“義“という言葉は、社会正義とか社会道徳という意味の義ではありません。聖書の言う義とは、神の善悪の判断、神のご性質のことです。“義が行われる“とは神の御心が成ることです。神は愛です。この不道徳な罪の時代に悩んでいる人を救うのが、神のご性質、神の御心です」(手島郁郎「マタイ伝講話第二巻」/手島郁郎文庫刊)

キリスト教では盛んに神の”愛”と並んで、その”義”について説かれています。
特にわが国では、内村鑑三先生以来、無教会の界隈では、この二つのことに触れないのは、モグリかと思うくらい、伝統のようになっていると言えるでしょう。
しかし私には、聖書にどう書かれているかはともかく、それが本当に神から来るのかどうかはともかく、思いを超えたところから来る、”神的な愛”というものは、いつも示され、与ることはあっても、”神的な義”の方は、ほとんどそういうことは無いのです。
これは、直接的に示されたことが無いということを言っているのでして、例えば、自分がある素行から、義にもとるような、トンだ痛い目にあったとかいうのは、自業自得のことであり、又ある不適切な、良心を疑うような言説に触れて、手島先生じゃないけど、猛烈なプロテスト精神がもたげてきたりするのは、私自身の血の気の多い性質から来るものと言えるのです。(宗教的な人、ことにキリスト者には、これらのことを短絡的に神の義と結びつける向きが何と多いことか!)
だから、私には神の義というものは分からないし、そういう説教などに接してもピンと来ません。従って、これ又キリスト教の決まり文句、”神の裁き”というものも直接的には分からないのです。
ただ愛というものが示されるだけ!...もし、それが無きものにされたり、歪曲、冒涜されるとしたら...そのこと自体、裁きとして示されるのではないか?...
即ち、そこに直接性は無いものの、義というものが顕わになるのではないでしょうか?
それは、我々の良心、義心から直接もたらされるのではありません。
それが示されることによって、我々のその心が動かされるのです。それも又思いを超えたところから来るのは確かなことでしょう。
では、その神の義によって、何が明かされ、何が裁かれるのでしょう?
”愛に与ることが出来ない!”...これに尽きるのではないでしょうか?!
人が言っている、考えられている愛にあらず…愛そのものを知らないこと...それは、生そのものを知らないということに等しいのではないか?
すべての不義、悪というものの根源的な意味は、人間的正義や倫理道徳に求めても分からないでしょう。それに求めても、何らの根本的歯止めにはならないということです。
愛そのものが分からない、それを失った人間、世界!...神の審判は、既に成されていると言っていいのではないか?...逆に言えば、そのものが、我々の思いを超えたところに息づいているからこその我々のこの世界なのでしょう。
このように、神的な愛と義というのは、二つのことでは無い、ということでしょう。
ただ、そこに愛というものが展開しているのを感じずにおれません。
愛こそはすべて!...
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