“真の神が表に現れる“
とは、私が初めて学生時代、宗教教団と関わった時から聞かされていた言葉で、そこを辞めてから研究していた、その教団の大本、大本教で盛んに叫ばれていたのでした。
以来、ずっと私にはこのニュアンスの言葉の響きが脳裏から拭い去れないものを感じているのです。
この意味合いは我々は、真の神というものにこれまで関わることも接することも無かった、ということなのでしょう。
そして、そのものが現れる、その時節を迎えたのだ!、と。明治時代に表された、その元の神による神示(お筆先)は過去完了で記されていたのです!
神が現れるとは、神の方が我々に顕わになるということです。修行努力で神を目指し、神と一つになろうとするので無しに!、その神が何かも分からずに、ですよ!
元より我々には分からない...頭の理解では永久に分からないでしょう!...
だから、神は我々の思いを超えたものだ、と理解しないとならないのです!
私は勿論神など分かりませんが、何の努力も無しに朝目覚めたら、その思いを超えたものに包まれていた、ということは何度もあります。その度に天の岩戸はとっくに開かれている!、との感に打たれます。然るに何故かくも迷わなければならないのか、と!
目が覚めたら、顕わになっている!...為すのではない!、なっているのです!...業生の自分はそのままで、ですよ!...“月末だ、金がない、どうしたらいいんだあ!“、という身で、ですよ!
“これは夢なのか?、いや夢じゃない!、夢から覚めたんだ!“
私は誰が何と言っても、今はそういう時を迎えていることを感じずに居れません!
“コイツ、何をオメデタイことぬかしてんだ!“、と思われるかもしれません。
混迷の様相を益々強くする世の中、やむことの無い戦火、人の心はどこに?、人間は段々人間でなくなっていくよう...
こうしたことは、五井先生流に言えば、“消えてゆく姿“を見せられている、ということでしょう。
だから、崩壊してゆくような姿の人間が、段々心を取り戻し、本来の人間の姿になってゆくということは無いでしょう。
何もかもが行き詰まった感のある人間世界。もはや、我々の側から改善の、方向転換の道など残されているのだろうか?...しかし目覚めるということはあるだろう!
如何なる凝固たる思いの集積があろうとも、それが思いの世界なら溶けて、通り過ぎてゆくだろう!
段々人間は人間でなくなってゆく...これは、思われた人間は消えて、本来の人間になってゆくことの裏返しなのではないでしょうか?
そして、このことは我々の内に真の神が顕わになることを示しているのではないでしょうか?
真の神とは真の人間を顕わにし、指し示すものなのでしょう。
我々が神に目覚めるのでなく、神の方が顕わになって、目覚めしめるということでしょう!
とは、私が初めて学生時代、宗教教団と関わった時から聞かされていた言葉で、そこを辞めてから研究していた、その教団の大本、大本教で盛んに叫ばれていたのでした。
以来、ずっと私にはこのニュアンスの言葉の響きが脳裏から拭い去れないものを感じているのです。
この意味合いは我々は、真の神というものにこれまで関わることも接することも無かった、ということなのでしょう。
そして、そのものが現れる、その時節を迎えたのだ!、と。明治時代に表された、その元の神による神示(お筆先)は過去完了で記されていたのです!
神が現れるとは、神の方が我々に顕わになるということです。修行努力で神を目指し、神と一つになろうとするので無しに!、その神が何かも分からずに、ですよ!
元より我々には分からない...頭の理解では永久に分からないでしょう!...
だから、神は我々の思いを超えたものだ、と理解しないとならないのです!
私は勿論神など分かりませんが、何の努力も無しに朝目覚めたら、その思いを超えたものに包まれていた、ということは何度もあります。その度に天の岩戸はとっくに開かれている!、との感に打たれます。然るに何故かくも迷わなければならないのか、と!
目が覚めたら、顕わになっている!...為すのではない!、なっているのです!...業生の自分はそのままで、ですよ!...“月末だ、金がない、どうしたらいいんだあ!“、という身で、ですよ!
“これは夢なのか?、いや夢じゃない!、夢から覚めたんだ!“
私は誰が何と言っても、今はそういう時を迎えていることを感じずに居れません!
“コイツ、何をオメデタイことぬかしてんだ!“、と思われるかもしれません。
混迷の様相を益々強くする世の中、やむことの無い戦火、人の心はどこに?、人間は段々人間でなくなっていくよう...
こうしたことは、五井先生流に言えば、“消えてゆく姿“を見せられている、ということでしょう。
だから、崩壊してゆくような姿の人間が、段々心を取り戻し、本来の人間の姿になってゆくということは無いでしょう。
何もかもが行き詰まった感のある人間世界。もはや、我々の側から改善の、方向転換の道など残されているのだろうか?...しかし目覚めるということはあるだろう!
如何なる凝固たる思いの集積があろうとも、それが思いの世界なら溶けて、通り過ぎてゆくだろう!
段々人間は人間でなくなってゆく...これは、思われた人間は消えて、本来の人間になってゆくことの裏返しなのではないでしょうか?
そして、このことは我々の内に真の神が顕わになることを示しているのではないでしょうか?
真の神とは真の人間を顕わにし、指し示すものなのでしょう。
我々が神に目覚めるのでなく、神の方が顕わになって、目覚めしめるということでしょう!