人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

イエスと聖母マリア

2023-11-16 09:43:19 | キリスト教関連
キリスト.イエスは神の愛を強調して教えを説いたことは、クリスチャンでなくとも知っていることでしょう。
端的にイエスは愛なのであると!
しかし、私は疑問に感じてしまうことがあるのです。クリスチャンでないからでしょうか?
それは、女性ならともかく男性信者たちは、イエスにその愛の表れにすう~っと感情移入出来るか、ということなのです。
もっともイエスは人間を超えた神の子、従って男女の別も超えた存在であり、又聖霊と一つなのだから問題無いのでしょうか?
そうですね!…私の場合、聖霊感というか、その現臨感によって愛というものを実感するのであり、人間(でもある!)実際に会ったことも無い、イエスを思い浮かべることはほとんど無いし、あの御方の愛に抱かれるという感を持つことも無いのです。
イエスって、伝えられる人物像では、無精ヒゲを生やしていて、結構ワイルドな感じらしいじゃないですか?...何かなあ!...こんなこと言ってバチが当たるでしょうか?
こんな訳で、もし人間的な姿を思い浮かべることにより、愛を感じるとしたら、それは異性的なものを借りるというのが、自然なのではないでしょうか?
だから私は、カソリック教会に伝えられる聖母マリア崇拝というものは、こんなところから生まれて来たように思えてならないのです。
これは、神学的にイエスの、マリアの人格と神格?の関係がどうのこうのという理屈の問題じゃないのです。イエスの神人性をマリアに感じとってもいいではないのか?
カソリックの人たちは、あまり意識せずにそうしているのではないか?
そこへ行くと、日本神道はもっといいかげんな感じで、例えば男性神、素戔嗚尊を祭る神社には、その妻神、稲田姫と一対にして、祭られているケースが実に多いのです。
神の世界では夫婦はより一体になるのか、又これには出口王仁三郎師のその男女一体神観の影響もあってか、私には特に素戔嗚尊を思念して愛を感じる時には、その女性性に感じていることはごく自然なことなのです。
“キリスト教は、そんな偶像的な礼拝などしない“、な~んて、これ又そんな理屈の問題じゃないですよ!、神の愛を感じるかどうかと言うことは!
一方、イエスの救世主としての側面は男性性として感じられるのは言うまでもないでしょう。
肉体は男で、ミタマは女なのか?(大本では変性女子という)
イエスの裏側から現れるマリア(それは、一部で囁かれている、イエスの妻だったとされる、マグダラのマリアかもしれない?)...
やはり、私はイエスにも素戔嗚尊(ちなみに王仁師は、“イエスは素戔嗚尊の分かれである“、と説いています)にも、神人一体のみならず、男女一体のその神人性を感じてなりません!
これは聖霊、現臨によってそうならざるを得ないのです!...
コメント
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