人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

中と外の回線がつながった!

2023-12-03 09:24:42 | 現臨、ハタラキ
私に始めて現臨感らしきものが芽生えた頃(昭和54年初頭)のことは何度も書いていますが、初めはあまりそうした自分を超えたもののことは意識されておらず、顕著だったのは、手の辺りに感じられる暖かみなのでした。
これは、単に熱いとか冷たいという肉体感覚ではなく、それを含め又それを超えたところ(霊体?...その二つが一体になったようなもの)から来るもので、このこと自体に“超えたもの“へつながる萌芽があったと言えるでしょう。
当時、毎日のように実修していた、中国道院に伝わる“先天の坐“というごくシンプルな瞑想法をしている時は、決まってそういう感覚を覚えていました。
この感じが段々広がって行って、首から頭の方に移ってくると、頭がボーッとなり、思考機能が後退し、時には意識も消えて、そのまま倒れてしまいそうになることもありました。
改めて思うに、これは意識は頭の中にあるという固定観念が強く、その行き場が無くなり、混乱状態になるからではないか、ということに気付かされるのです。
簡単に言うと、思考とそれを超えたものについて整理がなされていなかったということです。
本当のところは分からないですが、思考は頭の中にあるって感覚は誰もが持っているでしょう。考えすぎると、頭が重く感じるし...
して、その元にある意識も頭にある、なんてことになったら、脳ミソはキャパオーバーでパンクしてしまうんじゃないですか?...多分、それはこんな状態になっていたように思われます。
そこに現れたのがわが救世主、“見えざる導師“であったのです!
それは、私の頭の中にではなく、正に現前に、現存、現臨するものであったのです!
私という個体を、思考を超えたものが顕わになった!...これが実に、ジッツに大きいことなのです。
それは、又“私はここにある“という声なき声と共に現れた!...これが“私はある“という実存感覚の目覚めと言ってもいいのです。
それからというもの、ごく自然に現前するものに意識が向けられるようになったのは言うまでもありません。
これは、内的な感覚がそうした超越的な方へ移行したということではありません。
言わば、内的なものと超越的なものとの、中と外の回線がつながったようなことです。
これには、手島郁郎、小池辰雄両先生の著作を通じて、神、キリスト、聖霊の現存、現臨についての消息を知らされたことが大きかったのです。
それは、まったく一時の観念的理解を超えたもので、私の頭の中から何かが超え出て行って、根底から揺さぶられる感じを今もなおアリアリと覚えていることなのです!...
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