「私はただラーマひとりだけしか、敬うことも愛することも出来ません。私の心も、魂もすべてラーマのものです。私の血の中にも、心にも、魂にもラーマの血が流れております。今も心の中にあるラーマを敬い、愛しているのです」(古代インドの叙事詩ラーマーヤナ)
多くの宗教では、神と一つになるには、敬虔な心を持たなければならない、心を純一に、信奉する神に専一に祈りを捧げねばならない、などと説いています。
だけど、絶えずあれこれ思いを巡らしていたり、何かに囚われている人間の側から中々そういう心境になれるものではありません。
第一どの神、どんな教えに従ったらいいか分かりません。そして諸々の宗教の中の一つを選んで、その奉ずる神に帰依してゆき、他の宗教の神は排し、否定されてしまうのでしょうか?
それで強固になってゆくものは、排他的な思念ばかりなのではないでしょうか?
そこには、思い、為そうとする自分ばかりが場を占めていて、肝心の神は全く思念の外におかれたままなのです。
神の導き無しには、何一つ良きことは始まってこないにも関わらず!...
祈るということは、勿論自分から始めるものではありますが、それはどこまでも宗教の人間の教えでなく、神そのものに向けられなければなりません。
だから、どの神に?って、だからだから、あれこれ思い描いてる人間に訊いてどうするのかってんです!
神は何次元の存在か、悟りには何段階あるかとか、幾つのチャクラを開かなければならない、とか...こんなのはすべて思い描いたものばかりではないか?
神の前ではすべて関係ありません!
敬虔になる、純一になる、専一になる、これすべて神の導きがどういうものかを物語っているのではないか!
あなたをそのようにしむけるもの無しには、そんな心境にはなれないものでしょう。
こう考えると、人を祈りに導くもの自体がそういうものだとも言えるでしょう。
純一に、専一、主一になるとは、そこに例えば宗教が、神がいくつあるように説かれていても、一なるものに貫かれているようなことです。
だから排他的狂信とはまるっきり違うことであり、むしろ広く、自由な心性が自ずから開かれて来るのが普通なのです。
この消息は、すべてで一つであるものとしか言いようがありません。
この帰一的な在り方ですが、そこに自ずから自分自身が諸々の思いから離れて、私という意識に収斂されてゆくものが感じられてきます。
つまり一なる神につながることは、真我の実現につながることでもあります。
これは、あたかも血のつながりのように、本来的に神と同質のものを自分の中に戴いているということを示しているのでしょう。
いや、これはもう親子の血のつながり以上のものではないか?!
意識しただけで、中から言い難きものが呼び覚まされて来るというのは!
だから、思われた自分からは中々始まってこないことも、信じられている神でなく、あなたの神だけに思いを向けることで、容易く開かれて来るのです!
何故ならば、神の方があなたを放っておかないでしょうから!...
多くの宗教では、神と一つになるには、敬虔な心を持たなければならない、心を純一に、信奉する神に専一に祈りを捧げねばならない、などと説いています。
だけど、絶えずあれこれ思いを巡らしていたり、何かに囚われている人間の側から中々そういう心境になれるものではありません。
第一どの神、どんな教えに従ったらいいか分かりません。そして諸々の宗教の中の一つを選んで、その奉ずる神に帰依してゆき、他の宗教の神は排し、否定されてしまうのでしょうか?
それで強固になってゆくものは、排他的な思念ばかりなのではないでしょうか?
そこには、思い、為そうとする自分ばかりが場を占めていて、肝心の神は全く思念の外におかれたままなのです。
神の導き無しには、何一つ良きことは始まってこないにも関わらず!...
祈るということは、勿論自分から始めるものではありますが、それはどこまでも宗教の人間の教えでなく、神そのものに向けられなければなりません。
だから、どの神に?って、だからだから、あれこれ思い描いてる人間に訊いてどうするのかってんです!
神は何次元の存在か、悟りには何段階あるかとか、幾つのチャクラを開かなければならない、とか...こんなのはすべて思い描いたものばかりではないか?
神の前ではすべて関係ありません!
敬虔になる、純一になる、専一になる、これすべて神の導きがどういうものかを物語っているのではないか!
あなたをそのようにしむけるもの無しには、そんな心境にはなれないものでしょう。
こう考えると、人を祈りに導くもの自体がそういうものだとも言えるでしょう。
純一に、専一、主一になるとは、そこに例えば宗教が、神がいくつあるように説かれていても、一なるものに貫かれているようなことです。
だから排他的狂信とはまるっきり違うことであり、むしろ広く、自由な心性が自ずから開かれて来るのが普通なのです。
この消息は、すべてで一つであるものとしか言いようがありません。
この帰一的な在り方ですが、そこに自ずから自分自身が諸々の思いから離れて、私という意識に収斂されてゆくものが感じられてきます。
つまり一なる神につながることは、真我の実現につながることでもあります。
これは、あたかも血のつながりのように、本来的に神と同質のものを自分の中に戴いているということを示しているのでしょう。
いや、これはもう親子の血のつながり以上のものではないか?!
意識しただけで、中から言い難きものが呼び覚まされて来るというのは!
だから、思われた自分からは中々始まってこないことも、信じられている神でなく、あなたの神だけに思いを向けることで、容易く開かれて来るのです!
何故ならば、神の方があなたを放っておかないでしょうから!...