前回、私は神的な場~現臨にある時、より本体的な自分というものを感じると書いたのですが、これは勿論、私が段々私で無くなるということを言っている訳ではありません。逆のことを言っているのであり、そういう空間に自分が溶けてしまうようなことではありません。
これがジッツにこれまでの常識的な考え、感じ方と違うことなんで表現するのが難しいのです。
本体とか、何かの実体あるもののように言うことも本当は適切ではありません。常識的な線の方に譲歩しているまでです。
これは、自分の本体が肉体か、あるいは所謂霊体かということを問題にしているのではなく、より私がここにある、実存感覚というか、そういう純粋意識のことを言っているのです。(余計ややこしくなった?)
そしてこれは又、ブッダが実体あるものとしてのアートマン(真我)を、“無我“として否定的に説いていたことと通じるのかもしれません。
そんな悟ったようなことなど勿論言えないのですが...だから無我なんだから(ってもう、テキトーでいいだろ!)...
ここで気をつけなければならないことは、無我ということに囚われ、だからブッダはそのように真我というものの実体を否定したのだ、とそういう教えに固執してしまうことだと思います。
このことは、近年の悟り系スピの“私という個人は居ない“、といった決めつけた言葉などにも言えることで、ブッダが言いたかったことは、いたずらに空論、戯論を招くような定見に囚われるな、ということだったのではないでしょうか?
これは、それぞれの感じ方次第ということでしょう。
ただ、個的な実体があろうと無かろうと、“私はある“、という意識は否定出来ないはずなのです。そうでなければ、ここでこういうことを書いていることは勿論、訳のワカラン文章を読むことも、な~んもかも考えることも感じることも出来なくなりますよ。
このことから予感されることは、このような神的現臨の場、意識場と言ってもいいようなものを感じることが強くなるに伴い、“私は悟った!“とか特別視される人間は居なくなるであろうと言うことです。
本当の自分に目覚めることは、こうした場にあることとつながる...やっばり逆説的で従来の感じ方は段々通じなくなってしまうようです。
自分が目覚めるのではなく、場の方が動くということなのかもしれません?
そうでなければ、世界はますます行き詰まり、混迷してゆくだけでしょう?...
これがジッツにこれまでの常識的な考え、感じ方と違うことなんで表現するのが難しいのです。
本体とか、何かの実体あるもののように言うことも本当は適切ではありません。常識的な線の方に譲歩しているまでです。
これは、自分の本体が肉体か、あるいは所謂霊体かということを問題にしているのではなく、より私がここにある、実存感覚というか、そういう純粋意識のことを言っているのです。(余計ややこしくなった?)
そしてこれは又、ブッダが実体あるものとしてのアートマン(真我)を、“無我“として否定的に説いていたことと通じるのかもしれません。
そんな悟ったようなことなど勿論言えないのですが...だから無我なんだから(ってもう、テキトーでいいだろ!)...
ここで気をつけなければならないことは、無我ということに囚われ、だからブッダはそのように真我というものの実体を否定したのだ、とそういう教えに固執してしまうことだと思います。
このことは、近年の悟り系スピの“私という個人は居ない“、といった決めつけた言葉などにも言えることで、ブッダが言いたかったことは、いたずらに空論、戯論を招くような定見に囚われるな、ということだったのではないでしょうか?
これは、それぞれの感じ方次第ということでしょう。
ただ、個的な実体があろうと無かろうと、“私はある“、という意識は否定出来ないはずなのです。そうでなければ、ここでこういうことを書いていることは勿論、訳のワカラン文章を読むことも、な~んもかも考えることも感じることも出来なくなりますよ。
このことから予感されることは、このような神的現臨の場、意識場と言ってもいいようなものを感じることが強くなるに伴い、“私は悟った!“とか特別視される人間は居なくなるであろうと言うことです。
本当の自分に目覚めることは、こうした場にあることとつながる...やっばり逆説的で従来の感じ方は段々通じなくなってしまうようです。
自分が目覚めるのではなく、場の方が動くということなのかもしれません?
そうでなければ、世界はますます行き詰まり、混迷してゆくだけでしょう?...