いつも言うように、私が書いているものには私の独創的な理論もメソッドもありません。
すべて過去の有名無名の先師たちから借りたものと言ってもいいでしょう。
彼らの残されたものに共感、共有出来ればという願いこそあれ、チッポケな自分で独創的などと妄想してるような、何の役にも立たないものを表そうなんて気は毛頭無いのです。
その共有財産から離れ、浮いたような独創など独走、妄走して消え果てるしかないでしょう。
もし、そこに”普遍性”というものを見い出すことが出来るなら、ただそれにつながっていたいという一心しかないのです。
しかし、敢えてこのブログの逆説的な特色があるとすれば、例えば表向き何のつながりもないような、出口王仁師、五井先生、手島先生、小池先生、玉城先生、ベルジャーエフ、ラマナ.マハルシなどのことが同じ場所で自由に語られるような、そんな訳のワカランようなことが随所に出て来るところでしょうか?
又、誰も知らない”大調和協会”の命御様、命位様について書かれたものは、もしかして日本中探しても、ここでしか読めないかもしれないのです。(これは、新天新地、”人類維新の大業”について言い表しているのです!)
こういうのは、ウソ偽りの無い、私の固有の心性から表されているもので、きっと、他の追従を許さないものなのでしょう?...それもそのはず、誰からも理解されたことが無い!
何故、こういう誰もマネ出来ない(しない?)ようなことが出来るのかというと...その先師たちの人間性、教えは如何に異なろうとも、同じ言葉、形を超えた生きたものが伝わるからに他なりません。そして彼らは又、このものと共に生き、各々の在り方で、このものの消息を伝えていたに違いないでしょう?!
それが、聖霊、形なき命、おハタラキ...呼び名はともかく、ここでよく”神の現臨”と呼んでいるものと同質のものでしょう。
この呼び名は、そこに、正にその超宗派的なものを表したいがためなのです。
この本来言葉、形を超えたもののあるものが、そこから切り離され、浮き出してしまうというのは、本来あり得ないことです。そう分離させる、末節的なものに固執した言葉というものはあるかも分かりませんが!...
神の現臨という...神にあるということは、けだしそのものから切り離されない、表向きの違いはあったままで、一即多、一切のように調和しているということではないでしょうか?
といって、私には神が本当はどういうものかは分かりません。私の思考を超えているものなのだから!
しかし私は、上記のようなことを書いているうち、現前しているあるものに意識させられ、自ずとそこに惹きつけられるものを感じずにおれなくなるのです。
それは、普遍的なあるもの...私はそれがどういうものか分からずに、知らずにそのものに導かれているようなのです。
神、普遍性とは?...それはもはや我々の“思考の及ばないところ“にしか見い出すことは出来ないでしょう。
私はきっとそこで先師たちと偉大な財産を共有しているのかもしれません!...
すべて過去の有名無名の先師たちから借りたものと言ってもいいでしょう。
彼らの残されたものに共感、共有出来ればという願いこそあれ、チッポケな自分で独創的などと妄想してるような、何の役にも立たないものを表そうなんて気は毛頭無いのです。
その共有財産から離れ、浮いたような独創など独走、妄走して消え果てるしかないでしょう。
もし、そこに”普遍性”というものを見い出すことが出来るなら、ただそれにつながっていたいという一心しかないのです。
しかし、敢えてこのブログの逆説的な特色があるとすれば、例えば表向き何のつながりもないような、出口王仁師、五井先生、手島先生、小池先生、玉城先生、ベルジャーエフ、ラマナ.マハルシなどのことが同じ場所で自由に語られるような、そんな訳のワカランようなことが随所に出て来るところでしょうか?
又、誰も知らない”大調和協会”の命御様、命位様について書かれたものは、もしかして日本中探しても、ここでしか読めないかもしれないのです。(これは、新天新地、”人類維新の大業”について言い表しているのです!)
こういうのは、ウソ偽りの無い、私の固有の心性から表されているもので、きっと、他の追従を許さないものなのでしょう?...それもそのはず、誰からも理解されたことが無い!
何故、こういう誰もマネ出来ない(しない?)ようなことが出来るのかというと...その先師たちの人間性、教えは如何に異なろうとも、同じ言葉、形を超えた生きたものが伝わるからに他なりません。そして彼らは又、このものと共に生き、各々の在り方で、このものの消息を伝えていたに違いないでしょう?!
それが、聖霊、形なき命、おハタラキ...呼び名はともかく、ここでよく”神の現臨”と呼んでいるものと同質のものでしょう。
この呼び名は、そこに、正にその超宗派的なものを表したいがためなのです。
この本来言葉、形を超えたもののあるものが、そこから切り離され、浮き出してしまうというのは、本来あり得ないことです。そう分離させる、末節的なものに固執した言葉というものはあるかも分かりませんが!...
神の現臨という...神にあるということは、けだしそのものから切り離されない、表向きの違いはあったままで、一即多、一切のように調和しているということではないでしょうか?
といって、私には神が本当はどういうものかは分かりません。私の思考を超えているものなのだから!
しかし私は、上記のようなことを書いているうち、現前しているあるものに意識させられ、自ずとそこに惹きつけられるものを感じずにおれなくなるのです。
それは、普遍的なあるもの...私はそれがどういうものか分からずに、知らずにそのものに導かれているようなのです。
神、普遍性とは?...それはもはや我々の“思考の及ばないところ“にしか見い出すことは出来ないでしょう。
私はきっとそこで先師たちと偉大な財産を共有しているのかもしれません!...