人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ハタラキにある交流

2024-06-02 09:32:45 | 現臨、ハタラキ
私が神的なものの”現臨”という言葉を使い出したのは、ほとんどこのブログを始めてからのことで、それまではもっぱら”ハタラキ”と言っていたのです。
ハタラキというのは、正に具体的に働くもののことであり、思い描いたり、考えたりすることでなく、現実にそうなる、そうなさしめるもののことを言うのです。
だから現臨という場合、そういうハタラキがある、ということであるのは言うまでもありません。それが臨むからハタラクのです。
ただ、ハタラキというと、どうも冷たい、理学的な作用という感じがするので、よりそうなさしむるもの、自己実存と切り離されない、ある意味で人格的な、現存するものの感じを表すために、そのように呼んでいるまでです。
又、先の思い、考えることと区別されることで、しばしば無化する、無のハタラキということを言っていますが、現臨にある時、思いから離れられる、ということも又言うまでもないことです。
私は、このことをテキメンに感じたことで、忘れられない思い出があります。
それは、昭和55年春、高砂市の大調和協会の本部にて、命位様との交流を通じて、その”おハタラキ”(協会でこのように呼び慣わされています。つまり”ハタラキ”という呼び名はここから借りているのです)の”み顕れ”、その生きたものであることをまざまざと実感させられたことです。
それまで、私は命位様の息子でもあるK氏との対話の中で、どういう内容だったかは忘れましたが、何か頭の中に重たい、迷路に入ったような、要するに思いの囚われに陥ってしまっていたのでした。
それが、応接室で命位様が入って来られるだけで、徐々にそれが開かれる感じになって来て、命位様の問いかけに対し、ボソボソとぎこちなく、言葉数少なく答えたことから、明らかに命位様の表情が変わり、その眼差しは、一点私の目を射抜くように向けられたまま、吶々と語られたその瞬間のことでした。
その内容たるや、語るだに言葉に言い表し得ないものです。ただそれは、私の内なるものを目覚めさせ、奮い立たせることに向けられていたのは確かなことです。
瞬く間にその思いの覆いは取り払われ、普段思い、考えている自分からは分からない、私の思いを超えた、私自身の真ん中を、そのおハタラキは直撃したようになったのでした。
”この人は、私以上に私のことか分かっているんだ!”
この出会い無くして、今の私は存在しないと言っても過言ではありません!
この時は、私に現臨感覚が芽生えていた頃で、明らかにその時、命位様との交流によってそれが自ずから呼び覚まされ、それに又命位様が感応されたようなのでした。
その交流は、実に神的な現臨、ハタラキによって呼吸され、貫かれていた、と言っていいでしょう。
その後、私は当時は東京在住していたのですが、こういう経緯もあって関西に拠点を移し、協会の会員にもなるなどして、縁を深めて行ったのですが、正直言って、協会絡みのことは、あまり記憶に残っていません。何で会員になったのかもよく分からないくらいなのです。
ただ、こうした命位様との交流のことは別だ、と言わねばなりません。
それは、現臨がハタライていたのだから当然のことなのです。
待てよ、協会のことは印象に無いと言ったけど、断片的にはあるなあ!
いや、それは断片では無いのです。あんなこともこんなことも、そこには:”おハタラキ”に会っていたのではなかったか!
現臨、ハタラキにある交流というものは、過去、未来を際断して現在を一つに貫いているのだから!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする