神学者、哲学者の滝沢克己先生は、神と人間の関係は、神と共にある、不可離のものである(インマヌエルの関係)と説いていました。
これは、神を信じようと信じまいと、誰しもがそういう原態的な構造を持っているとされ、それを第一義の(神との)接触と言い、精神的な道を歩み出し、何らかの気付き、などを通してそのことに目覚めたりすることを第二義の接触と説いているのです。
しかし、よく考えてみると、後者はともかく前者は、あくまでそういう人間の原態についての存在論的な説明に過ぎないと言わざるを得ないでしょう。
言うまでもなく、私は生まれついた時から神と共にあることを感じて、生きて来た訳ではありません。
そのように我々は、宗教、スピなどと関わり、修行や覚醒体験などで直接示されない限り、そういうことが明らかにされることは無いのです。
つまり、一も二も無い、神との接触を通じてしか、それを分かりようが無いのです。
しかしながら、その界隈には実に“人間は本来神の子、神と一つのもの“、といった、先入観念を植え付けてしまう信仰ごとが越境して語られることが多いのです。
そういう教えに触れ、共感したとして、そのことを神に直接ゆだね、聞くという実存的、主体的な心的態度というものが必要でしょう。
そうでないと、本当に身についたことにならず、生きたものとはならないですよ!...
というようなことを書いてみたのですが...共感?、う~ん!...
言葉に触れて、元々自分の中にあるものが呼び覚まされるということもあるものです。
又私は当たり前のように、“神に聞けばよい!“何て言っちゃってます。あなたにはあなたの神が居るだろうということを前提にしたみたいに...私だからそういう風に言うのかなあ?
この場合、共感する、神と言わずしても、自分を超えたものに意識が向けられることがもう、先の“接触“と言ってもいいでしょう。
そこには、単なる言葉による刷り込みでは説明がつかないものを感じます。
初めは漠然と感じているだけでも、ある契機にアリアリと目の当たりに直感されることもある...かもしれない?...これを現臨にある状態と呼んでいるに他なりません。
この意味で初めの方を第一の接触、後のを第二の接触と言ってもいいかもしれません。これはしかし、すべての人に当てはまるのかどうかは分からないですが...
接触があって初めて分かるものには変わりはないでしょう。考えている一個なる自分だけからは!...自分は自分だけで生きてはいない!
これが分かった人は、接触もなにもそうなっているのが分かるだけでしょう。
それは、あたかも空気と接触しているようなことなのでしょう。
これは、神を信じようと信じまいと、誰しもがそういう原態的な構造を持っているとされ、それを第一義の(神との)接触と言い、精神的な道を歩み出し、何らかの気付き、などを通してそのことに目覚めたりすることを第二義の接触と説いているのです。
しかし、よく考えてみると、後者はともかく前者は、あくまでそういう人間の原態についての存在論的な説明に過ぎないと言わざるを得ないでしょう。
言うまでもなく、私は生まれついた時から神と共にあることを感じて、生きて来た訳ではありません。
そのように我々は、宗教、スピなどと関わり、修行や覚醒体験などで直接示されない限り、そういうことが明らかにされることは無いのです。
つまり、一も二も無い、神との接触を通じてしか、それを分かりようが無いのです。
しかしながら、その界隈には実に“人間は本来神の子、神と一つのもの“、といった、先入観念を植え付けてしまう信仰ごとが越境して語られることが多いのです。
そういう教えに触れ、共感したとして、そのことを神に直接ゆだね、聞くという実存的、主体的な心的態度というものが必要でしょう。
そうでないと、本当に身についたことにならず、生きたものとはならないですよ!...
というようなことを書いてみたのですが...共感?、う~ん!...
言葉に触れて、元々自分の中にあるものが呼び覚まされるということもあるものです。
又私は当たり前のように、“神に聞けばよい!“何て言っちゃってます。あなたにはあなたの神が居るだろうということを前提にしたみたいに...私だからそういう風に言うのかなあ?
この場合、共感する、神と言わずしても、自分を超えたものに意識が向けられることがもう、先の“接触“と言ってもいいでしょう。
そこには、単なる言葉による刷り込みでは説明がつかないものを感じます。
初めは漠然と感じているだけでも、ある契機にアリアリと目の当たりに直感されることもある...かもしれない?...これを現臨にある状態と呼んでいるに他なりません。
この意味で初めの方を第一の接触、後のを第二の接触と言ってもいいかもしれません。これはしかし、すべての人に当てはまるのかどうかは分からないですが...
接触があって初めて分かるものには変わりはないでしょう。考えている一個なる自分だけからは!...自分は自分だけで生きてはいない!
これが分かった人は、接触もなにもそうなっているのが分かるだけでしょう。
それは、あたかも空気と接触しているようなことなのでしょう。