人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

受け入れることは許すこと

2025-03-08 06:14:53 | 求道、探究
ありのままの自分を認め、受け入れることが如何に大事なことか、ということは何度も言っています。
自分をどうこうしよう、何かになろう、何かの境地を目指そうとするよりも、そこからしか何も始まらないと言ってもいいことなのです。
私の場合でも、初めて思いを超えた天来の一撃を受けたことも、初めて神の手に捉えられて人生の裏側へと踏み入れてしまったことも、そういうことだったのです。
これは、ありのままの自分を受け入れることと、神的なものを受け入れることは同じだ、ということを端的に言っているのです。
神無しに自分を受け入れられないし、自分を受け入れないと神も受け入れられません。順序としては神の方が先でしょうが...
誰でも頭では、“神とつながり、真我に目覚めないとならない“、と思うものでしょうが、しかし、大体そういうものは、ありのままの今のことでなくて、高い、進んだ、理想を正に思い描いた世界のことでしょう。
だから今のダメな、悪い自分は到底認め、受け入れられないのです。
そして、前世のカルマをすべて清算しなければ、すべてのチャクラを開かなければ、何段階もの階層を通らなければならない、とか一生かかっても出来そうにないことをわざわざ自分に課したりししているのです。
本当に現実はそうなっているのか?..そう思っているだけでしょう。
現実は、一歩たりとも進んでいないということを知らねば、そう、受け入れなければなりません。
ありのままの自分というのは、受け入れるしかない現実なのです。リアリティ。
出来るとか、出来ないという問題ではありません。簡単も何もない、そうなっていることなんだから!
五井先生は、言葉としてはこういうことはあまり説かれていないようです。
しかし私は、“自分を愛し、自分を信じ、許す“、という言葉にそういうものを強く感じています。
手島先生も小池先生も、クリスチャン特有の“罪を認めよ!、そうでないと神の許しは得られない“、ということはほとんど説かれませんでした。
「なにイ、私には祈れないだと!、黙れ!、さっさと祈れ!」「キリスト、聖霊、十字架の現実にありのままの自分を投げ出す、ぶっ倒れるんです!」
自分を許す、神の許しというもの抜きにそういう言葉は出てこないでしょう。こういう言葉に触れて私は、大いに魂が振るい立たされました。
ありのままの自分を受け入れることは、自分を許すこと...自分を許すことは、神を許すことに他なりません。
“こんな自分は神は許してくれない“?
“どうか、私を許して欲しい、受け入れて欲しい!“、と切々と訴えている声なき声があなたに聞こえないだろうか?
どうかありのままの自分、あなたの神に聞いてみて下さい!...

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